このコラム欄でイタリア人の脳外科医の話を紹介したことがあった。人間の心臓移植は今日、世界各地で実施されていることで、もはや珍しくはないが、イタリア人外科医は頭部の移植を試みようとしたから、メディアでも結構話題となった。血液を体中に送り出す役割の心臓の移植とは異なり、頭部を移植すれば、「私」は自動的に新しい肢体に移動すると考えられるからだ。
臓器の移植では、移植の前後で患者の生活様式に変化が出てくるケースもある。例えば、腎臓移植をした女性が手術後、無性に走りたくなったという。手術した医者によると、腎臓提供者はマラソンを趣味としていたというのだ。女性は腎臓と共に臓器提供者の生活スタイル、嗜好をも受け継いだわけだ。(『私』はどこにいるの?」2015年5月24日参考)。
一時期、心臓周辺に人間の精神生活を司る中心の「私」が潜んでいると考えられてきた。しかし、どうやら心臓は「私」の住処ではなく、単なる血液や栄養素の運搬ポンプ機能を担っている器官ということが明らかになった。そこで「私」探しの次のターゲットは頭部に移った。だから、イタリア人外科医が頭部移植計画を発表した時は非常にセンセーショナルに受け取られたわけだ。
多くの脳神経学者は今日、頭の中に精神的機能を司る神経網が張り巡らされていると主張している。他者に同情したり、怒ったりする心の働きが脳神経のどの部分によって生じるか、今日の脳神経学者は詳細に知っている。だから、脳神経学者は「私(心)は頭の中にある」とかなり確信している(「ミラーニューロンが示唆する世界」2013年7月22日参考)。
オーストリア国営放送(ORF)の科学欄で興味深いテーマが報じられていた。タイトルは「Wo der Glaube im Gehirm sitzt」(信仰は頭のどこにあるのか)だ。記事は「25年の間、神経科学者たちは脳のスキャンを使って、霊的および宗教的な経験の場所を特定しようとしてきた。最新の研究によれば、脳幹の進化的に古い領域が重要な役割を果たしていることが分かってきた。宗教的感覚は、初期の人類の生存にとって有利に働いたかもしれない」というのだ。
オーストリアのグラーツ大学宗教教育学の研究リーダー、ハンス・フェルディナンド・エンジェル(Hans-Ferdinand Angel)教授は世界中の神経科学、心理学、宗教学の研究者たちとネットワークを構築し、長年にわたって「個人が信じているときにその頭の中で何が起こっているのか」というテーマに取り組んできた。同教授は、「信仰プロセスは脳の独自の機能であると確信しているが、信仰プロセスや信念が宗教と必ずしも関連しているわけではない」と指摘している。要するに、「信じる」、「信念」という人間の精神生活の源泉を追求しているというのだ。
最近公表された研究では、特定の脳領域と霊性の経験との関連を探る試みが行われてきたという。その中で、ハーバード大学の研究者マイケル・ファーガソン氏(Michael Ferguson)は、特定の脳領域の損傷により、霊性が増加または減少する患者の事例研究を調査している。それにより、霊性に関連するネットワークが脳内にあること、古代の脳幹領域の「中脳水道周囲灰白質(PAG)」と常に連結していることが明らかになった、というのだ。
PAGは、恐怖反応のホルモンの調節、痛みの制御、人間関係の形成、性的な愛とは無関係の愛に関与している。研究者たちは、人々が一般的に脅威を感じたり、自然災害を経験したりすると宗教性が増すと指摘している。また、霊性や宗教性は痛みを和らげ、プラセボ(偽薬)効果を高める助けにもなるという。さらに、宗教は愛や忠誠心といった価値観を促進し、それらの感情もPAGで調節されるというのだ。
ファーガソン氏らは、「宗教が進化生物学的な利益を提供するかもしれない。これは人間が自己の終焉を理解しているという認識から生じ、人間は何かより高いもの、何か超越的なものを求めるようになり、ある種の超越的なもの、何かトランセンデントなものがあると人々に伝える働きを生み出す。自分の死が終わりを意味しない、という認識を生み出すわけだ。それが、生物の進化上、生存にプラスとなって働いてきた」ということだ。
いずれにしても、「神経神学」はあくまでも生物学世界(人間の四肢五体)で「神」や「私」を見つけようとする神学の一つだ。人類の歴史では、心臓や頭脳ではなく、人間の足に神が存在すると考えられた時代もあったのだ。唯物論的な世界観がその基盤となっていることはいうまでもない。だから、敬虔な神経学者の中には、「神経神学」(Neurotheologie)と呼ぶことに抵抗を覚える学者がいるという。
以上、ORFの科学欄で報じられたペーター・ベリンガー記者の記事(7月23日)を参考にまとめた。
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編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年7月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。