「なぜ安倍氏を失った『安倍派』は迷走しているのか…反LGBT、韓国嫌悪、公明批判を連呼する保守派の”限界”『安倍レガシー』は日本人全体の財産のはず」という記事に寄せられた批判に対して、「安倍元首相を過激な保守派のアイドルにしないで欲しい」という記事を書いたが、そこで公明党関係については、あらためて書くと予告しておいた。
この「安倍政権を8年半、連立を組んで支えてきた公明党に対して安直に連立解消というのは、安倍政治に対する裏切りともいえる」という一節に激しく反発する人が要る。安倍氏の足を公明党は引っ張ってきたというのである。
もちろん、連立を組まずに政権が維持ができ、重要法案を通せて、憲法も改正できるならば、どんな政党にとってもその方が良いに決まっているし、安倍さんだってそれを望んでいたにきまっている。
だが、自民党にそのような力が無いから、公明党に協力を仰ぎ、たとえば安保法制が典型的だが、公明党は非常に苦労して党内をまとめて、安倍政権に業績を上げさせたわけだ。
あるいは、安倍氏が二度目に消費税を上げられたのも、公明党が軽減税制を導入することを条件に協力したからだ。
それを、「公明党がいたから安倍氏はできることもできなかった」とか、「邪魔だった」とかいうのは、安倍さんに近いと自称する人が言えば、それは故人の顔に泥を塗ることになるし、安倍氏が亡くなった後、公明党が方針変更して、安倍レガシーを否定している訳でもないのに、安直に連立解消とか言うのも礼節を知らぬことになるということのどこがおかしいのか。
もちろん保守派の人が、「安倍氏は公明党などと連立を組んでたから、保守の顔をしながら、中道寄りの政策をとっていた。これからは、安倍のような馬鹿なことしないで、保守純化した主張をして、いつかそれが実現できればいいので、さしあたって政権を失おうが、憲法改正が遠のいてもいい」というなら、私は共感しないが、それはそれで筋の通ったご立派な主張だと思う。しかし、安倍氏ならそんな発想しなかったことは間違いない。
最後に、「安倍晋三 回顧録」(安倍晋三、橋本五郎、尾山宏 中央公論新社)から「公明党との連立の意義」の項目を少し要約して紹介しておこう。
安倍氏は、「風雪に耐えた連立」とよく言ってきたという。
「民主党政権時代の3年3か月間、公明党が野党・自民党とタッグを組むのは、相当のチャレンジだった」
「よく乗り越えたと思います」
「選挙での公明党の力は大きい」
「公明党が自民党の候補に推薦を出すと、どっと支持が増える」
「推薦が出る前と比べると、2割くらい上がる。とてつもない力です」
「創価学会幹部から、うちの支持者はちゃんと投票所に足を運んでいますからと言われると、もう平身低頭するしかない」
「残念ながら、明らかに自民党支持者より組織力が強い」
「政策テーマについては公明党の意見も取り入れてきた。特に社会保障分野では、いいコンビネーションができている」
「自民党も助け合いの精神や分配政策を否定していません。そういう意味では公明党と親和性があると思います」
「安全保障分野ではぶつかるのです。平和はもちろんみんなが求めているのだけれど、それを達成するための手段、考え方が異なる。その点は互いに綱引きをしながら一致点を探ってきたわけです。安全保障関連法にはよく協力してくれたと思います」
こうした安倍氏の評価と公明との連立解消を軽々しく口にする人とは対極にあるのであって、そんな人たちは、アベイズムの後継者とは到底いえないだろう。
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