日本の魚を食べて中国に勝とう
公益財団法人国家基本問題研究所(JINF)による「日本の魚を食べて中国に勝とう」と題する意見広告が9月6日、産経新聞と日経新聞に掲載されました(読売新聞は7日)。ALPS処理水の海洋放出を受けて中国は日本産水産物を全面的に輸入を停止しましたが、この措置への日本側対応策として、日本の海産物を消費するよう、広く一般国民に呼びかけました。
【意見広告】 日本の魚を食べて中国に勝とう
おいしい日本の水産物を食べて、中国の横暴に打ち勝ちましょう。
東京電力福島第一原発処理水の海洋放出を受けて、中国政府は日本の水産物を全面輸入禁止にしました。「福島の『核汚染水』から中国の消費者を守るため」と言っています。科学的根拠の一切ないひどい言いがかりです。それでいて中国は多くの漁船団を日本周辺海域に送り込み魚を取り続けています。私たち日本人はこんな不条理には屈しません。
中国と香港への日本の水産物輸出は年間約1600億円です。私たち一人ひとりがいつもより1000円ちょっと多く福島や日本各地の魚や貝を食べれば、日本の人口約1億2千万人で当面の損害1600億円がカバーできます。
安全で美味。沢山食べて、栄養をつけて、明るい笑顔で中国に打ち勝つ。
早速今日からでも始めましょう。
(JINF広告より引用)
全体として誠に時宜を得た意見広告であり、その主旨には賛同致します。ただし賛同の前提として、一部分に判断を留保することも表明します。具体的には、下記2点の意見を表明します。
① 「日本の魚を食べて」という日本産魚介類消費喚起に賛成します。
確かに1,000円×1億2千万人=1,200億円なので「一人ひとりがいつもより1000円ちょっと多く福島や日本各地の魚や貝を食べれば、日本の人口約1億2千万人で当面の損害1600億円がカバーできる」という根拠は合理的かつ明快です(以上は全て年額)。
私自身もこの呼びかけより前から、積極的に日本産海産物(と福島名産の桃)などを消費するようになっており、付加的な消費額は先月の時点で既に、家族一人当たり1,000円を超過しております。
② 「中国に勝とう」という呼びかけへの支持は留保します。
【理由1】「中国の何に勝つのか」対象範囲と勝負判定の基準が不明確だから
一体中国の何に勝てというのでしょうか。文脈から考えてGDPや軍事力でないことは明らかですが、いわゆる「影響力工作」や「世論戦」という観点であれば「勝敗の定義」が不明確です。
仮に呼びかけに呼応し、中国への対抗意識(≒敵愾心)に溢れる世論が日本国内で喚起されたとします。この場合、反中国派と親中国派に分断されたり混乱が広がったりすることが予想できます。しかしそれは逆に、現状変更国側の「影響力工作」の観点では工作目標の達成でしょう。
「経済制裁」という観点からであれば「年額1600億円」と推定される水産物の輸出先喪失という影響をゼロにすることを指すのだと考えます。この場合は達成も容易です。
しかし、そもそも大枠としての中国のデカップリング(中国分離)という経済活動の制限を始めたのは米国を中核とした現状維持国陣営です。また中国側が台湾や韓国そして日本に対して市場を“人質”に経済的な制裁を行うのは日常的な光景であり、処理水放出はそれに大義を作り出す口実でしかありません。
従って水産物という局限された小規模の対象では収まらず、局面次第では他産業にも横車を押し続ける可能性は十分あります。もし自動車など規模の大きな産業に対してしかけられたら年額1,000円どころでは済まず、先に詰むのは体力の少ない方です。
つまり、経済的な体力勝負で張り合うことは愚策である可能性を慎重に分析する必要があるでしょう。
【理由2】副作用としての「予言の自己成就」
文部科学省の説明によれば、「社会現象は、その構成主体である人間の意思によって、現象自体が変化するという性質を持っている」とされております。
そのひとつに「予言の自己成就」と呼ばれる性質があります。
例えば今年6月頃、韓国ではALPS処理水の海洋放出ニュースが連日報じられ、「放出後の海水由来の食塩は嫌だ」という気持ちが「健康不安のない食塩がなくなる」という話につながり、食塩は十分豊富にあるので本来であれば無くなることはないのですが、現実の韓国の販売現場では品薄や値上がりという現象が起きました。
かつて欧州におけるドイツの戦争は、日中間の争い(戦争)と連動して第二次世界大戦に発展しました。これを回避できなかった背景に「日中双方の国民の、相手国への嫌悪感情」があります。中国側は「日貨排斥」、日本側は「暴支膺懲」というスローガンのもと、相互に相手を憎悪し合う負のスパイラルに陥りました。これは世論を動かし戦争を悲劇的な方向に推し進めた要因の一つでしょう(影響度合の評価は人により異なります)。
しかし「中国に勝とう」というスローガンによって、直ちに世論が燃え上がるということを懸念しているのではありません。実際に中国から日本国内へ迷惑電話が大量にかかってくるという愚かで犯罪的な行為が発生しても、日本側は“反撃”したい感情を抑え冷静に振舞う国民が多数でした。
売り言葉に買い言葉的な反応を恐れるのではなく、「負のエネルギーの蓄積」となることを危惧しております。詳しく言うと国内には“嫌中感情”という“種火”が確実に存在するので、その近くに“ガソリンのような可燃性の高い燃料”を静かに配置することになる点に危機感を覚えるのです。
それは後日、日米韓陣営と中朝露陣営との対立が激化するような時代がくれば燃え上がり、国内世論を先鋭化し、回避できたはずの紛争や有事を招いてしまうのではないか、と考えます。コロナ騒動でも見られましたが、不安を募らせた国民は簡単に一方向に揺れ動き、その巨大な奔流は「慣性の法則」に従うかのように止めようがありません。
愚かな反応の具体例
9月7日、共産党の村井あけみ氏(広島7区候補)がこの意見広告に反応し「もっとしっかり汚染魚を食べて、10年後の健康状態をお知らせください」とSNS(旧ツイッター)に投稿しました。
これには批判が殺到し、そのために村井氏は当該投稿を削除の上、心のこもっていない謝罪に追い込まれました。
誠に愚かな反応でした。
(※今では削除されてしまったので詳細は以下の記事で確認してください。)
反論の目的は、よりよい議論への止揚
国家基本問題研究所(JINF)が日本国民に向けて提起するテーマは、いつも国益を左右する論点を豊富に含んでおります。いずれも深い知見と慎重な考察の累積が感じられ、賛否を問わず議論を楽しみにしております。
しかし最近では、いわゆる“リベラル”と思われる言論人による批判も元気がありません。特にALPS処理水の問題に関して反対姿勢を持つ学者や論客の一部は、科学的な知見の不足を露呈し、非科学的で不誠実な強弁に閉じこもりがちとなり、公開の場における正々堂々の議論は見かけなくなりました。
そこで、対話を通してより正当性の高い見解へ発展することを願い、部分的ですが敢えて反論を表明しました。その目的は決して「論争に勝つこと」ではありません。この反論を説得する有力な議論があれば、私は喜んで一部留保という意見を取り下げます。
むすび:対立・分断は中国政府のおもうつぼ
科学的に妥当な根拠をいくら説明しても耳を塞いでしまう反対派が依然として存在します。彼らはその主張を強く維持するだけでなく、風評面で悪影響をもたらす主張を展開します。そのため国内で分断が起き得ることも確認できました。
中国側はそもそも日本の説得(処理水放水断念)を目指してはおりません。この対立と分断こそが、中国側が目指す影響力工作の目標の一つです。日本国民が混乱し、日本政府への疑念を強め、政府への信頼が揺らげば成功なのです。
平時の影響力工作は、有事において発動する武力の効果を高めるための「環境整備」と考えられます。更に日中韓連携にくさびを打ち込むための下地作りや、「入力偽情報に対する日本の世論の反応」を測定している可能性もあります。
日本国内の対立が激化し、社会がより強く分断されることこそ、中国側の影響力工作の思惑通りの動きであり「中国の思うつぼ」と言えるでしょう。
歴史に学ぶならば、日中とも対立と敵愾心を煽ることは控えるべきであり、日本政府が冷静に対応し続け中国政府側も静かにフェイドアウトを狙う局面に入ったこのタイミングで挑発的なスローガンを掲げることは良策とは思えません。
ですから呼びかけの目的と動詞を変えて、「日本の魚を食べて、国難を克服しよう」にするのが望ましいと考えます。