ある団体を批判することはその構成員を批判することである。例えば日本共産党を批判することはその構成員たる日本共産党員を批判することに他ならない。「私は共産党を批判するが共産党員を批判しているわけではない」という主張は詭弁に過ぎない。団体批判とはその構成員の振る舞いを見て成立するのだから当然だろう。
ところが昨年の7月8日以降の旧統一教会報道ではこの「当然」が全く無視されている。本来分けられない旧統一教会とその信者が分けられ旧統一教会批判は信者への攻撃とみなされない、それどころか「信者の救済」に繋がるとすらみなされている。
よく報道される旧統一教会へ献金をした信者は自動的に「被害者」扱いだが、構成員として所属組織に貢献したものを「被害者」扱いするのはおかしい。
同じ信者でも報道に抗議する信者、宗教行事(合同結婚式など)に参加した信者は検討らしい検討もなく「異常者」扱いである。
旧統一教会報道では旧統一教会信者を第三者が一方的に区分し社会的評価を下している。しかも報道機関・行政機関・政党・政治家といった「公共」を担う人達が公然と行っている。
この露骨な差別を実現可能としたのは先に触れた「旧統一教会批判=信者救済」という感情と過去の映像を大動員する手法である。
自分達の批判は信者の救済に通ずるものだという独善と現代日本人の美的感覚にそぐわない映像、昭和の古い映像や「サングラスをかけた韓鶴子夫人」などを繰り返し報道し旧統一教会への嫌悪を抱かせる手法である。
ここには信者個人を隠そうとする悪意、信者の顔を隠す悪意、信者を「生きた人間」として扱おうとしない悪意があるだけである。
カルト批判がカルト権力を招来する
旧統一教会報道では信者を「生きた人間」とみなしていないから旧統一教会対策とやらも極めて雑なものになる。今話題の宗教法人法に基づく解散命令が仮に発動されても任意団体として旧統一教会は存続する。昨年の段階で解散命令の必要性を説いた者の中で任意団体として存続する事実を理解していた者はどれほどいただろうか。
「解散命令が発動されれば旧統一教会信者は散り散りとなり互いに二度会わなくなる」といった具合で「消滅」のニュアンスで語っていたのがほとんではないか。
宗教団体とは精神的結合体である。営利組織とは違うのである。信者が「旧統一教会は存在する」といえばそこに旧統一教会は存在するのである。
この当たり前の事実すら無視され旧統一教会対策とやらがもっともらしく語られているのである。
さすがに反統一教会は解散命令発動後も旧統一教会が存続する事実はあまりにもみっともないことと自覚したのか任意団体化した旧統一教会を規制する新法制定を主張し始めている。これは解散命令を発動しても高額献金・霊感商法のリスクは解消されないと認めているようなものである。
とってつけたように旧オウム真理教を対象に制定された団体規制法の例を挙げているが、もちろんこれはミスリードである。
団体規制法は「宗教団体としてオウム」ではなく「テロ団体としてオウム」を規制しているのである。「オウムは規制したのだから旧統一教会も」という主張はあり得ない。
昨年7月8日以降、旧統一教会を攻撃するためならまさに「何をしてもいい」という過激な世論が形成されている。それは旧統一教会信者を憲法の対象外とする運動といっても過言ではない。
私はこういう世論を批判する。感情を包み隠さず言えば私は旧統一教会批判には「卑しさ」すら感じる。
こう主張すると「お前は何者か。旧統一教会の信者か」と批判されるが、もちろん筆者は旧統一教会の信者でも関係者でもない。自民党員でもない。
筆者が反統一教会を批判する理由は筆者自身の人権を守るためである。特定集団を憲法の対象外とする運動が筆者に矛先を向けない保障などなにもない。
旧統一教会報道では「高額献金した信者」や「宗教2世の人権」などの「他人の人権」を擁護するために皆熱心に議論し何かしらの規制の必要性を説いているわけだが、その規制が「自分の人権」にどの程度影響するのかという意識はほとんどなく、結果として旧統一教会信者を憲法の対象外とする運動を招来するという悲喜劇を演じ、人権擁護から大きく逸脱している。
人権擁護とは「他人の人権」だけではなく「自分の人権」を擁護する意識があって成立する。
「旧統一教会に関する人権問題」の解決を願う者は筆者と同じく「自分の人権」を擁護する視点をもつべきであり、この視点を持てない者が「特定集団を憲法の対象外とする運動」という人権剥奪権力を招来している事実は強調されるべきだろう。
人権剥奪権力は異常であり、カルト権力と言い換えても良い。
カルト批判がカルト権力を招来している。これが紛れもない今の日本の姿である。