ジャニーズ問題に見る日本の病巣とその改善策

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1. はじめに

崩れる時は意外にあっけない。あれだけ誰もが見て見ぬふりをしていた問題、一切報道等がされていなかったジャニーズ事務所における性被害問題が、大きく世間を賑わし、日本社会を揺り動かしている。

海外メディアが騒ぐまで箝口令でも敷かれていたかのように本件を全く取り上げなかったことについてバツが悪く思っているメディア関係者、ジャニーズと付き合えないと色々と面倒くさいな、と思っているテレビ局や政府等の関係者、ジャニーズ不在の間隙を縫おうと色めき立つ競合他社や日本進出を目論む外国の同業他社などなど、日本社会を様々な思いが交錯している。

何となくジャニーズ事務所との取引をする企業や政府・自治体関係者が減って行き、ジャニーズ事務所は恐らく名前を変えてゼロベースでの建て直しを図り、と言う中で、本件は、来年の今頃にはもう、誰も話題にもしなくなる出来事ではあると思う。良くある世間を賑わす一過性の問題に過ぎないのかもしれない。

しかし、この問題は、日本社会のあり方について、幾つもの根本的課題を突き付けた出来事であり、しっかりと受け止めて考えなければならない事象だと個人的には強く感じている。限られた紙面ではあるが、そのうちのいくつかについて少し考察を加えてみたい。しばし、お付き合い頂ければ幸いである。

2. 組織と個人

まず、私が感じた本件最大のイッシューは、個人は組織に対してどこまで責任を感じるべきか、という点だ。より具体的に言い換えれば、かつての創業経営者である故ジャニー喜多川氏の不祥事が顕在化して世間で非難されていることについて、所属していた社員やタレントはどこまで責任を感じて社会的制裁を受けるべきか、ということである。

結論から書こう。私は、ジャニーズ事務所の社員や所属タレントは、その地位や立場によって違いはあるにせよ、総じて、責任を感じて社会的制裁を受けざるを得ないと思っている。

確かに、世間には、「タレントに罪はない」「ジャニー氏の個人的な性的嗜好性に基づいた歪んだ行為について、頑張っているタレントまでが一種責任を負わされるのは可哀想」という言説がある。“言説がある”どころか、その機運はかなり強い感じもあり、未だにジャニーズタレントを起用し続けている企業も少なくないし、公的機関である自治体や官公庁ですら、一部(福島県や農水省)で起用を続けている。

少なくとも当該事実を知らなかった職員やタレントには罪が無いのではないか、という意見もある。告発本や訴訟まであった中、本当に全く知らなかった職員やタレントがどれだけいるのかは個人的には疑わしいと思っているが、仮にそういう方が少なからずいるとして、そうだとしても、私は、組織人は責任を負い、社会的制裁を受ける必要が一定程度はあると思う。

最近発生した別の不祥事として有名なビッグモーターの不正問題と比較すれば、そのことは明らかだ。「あの事件は、一部組織人たちがやったことであって、どこまで組織ぐるみかはともかく、少なくとも社員全員の罪ではない。真面目に自動車の整備だけをしてきた整備士や、勤勉に営業などをしてきた社員たちがいたら、少なくともその人たちには罪が無い」という言説がこの間、出てきているだろうか。私が知る限り皆無である。

そうした“問題ある組織”を選択して就職したり契約を結んだりしたというだけで、また、その結果、当該“問題ある組織”のために尽くしたということだけで、罪の重さの軽重はあるにせよ、所属構成員の責任は免れ得ないと考えるべきだ。

これは当為の問題ではなく、現前とある事実だが、欧米と比べて個人主義があまり発達していない日本では特に、組織の一員であるだけで、一定程度は組織の責任を取らざるを得ないのが実態だ。そういう社会になっている。課題が起きても逃げないのが日本の組織人の良い所でもあるが、仮に辞めたとしても、ある程度の責任は付いてまわる。

私はかつて経済産業省で働いていたが、辞めてから4か月後の2011年3月に東日本大震災が発生し、原発事故が起きた。事故の引き金を引いたのは止むを得ない天災ではあるが、いわゆる「規制の虜」問題にはじまり、数多くの人災も国家的な大事故を引き起こした大きな要因である。

私は原子力の部署にいたことはないし、福島原発関係の仕事はもちろん一切したことがない。それでも、経産省の一員だったというだけで、辞めた後であっても一部の責任は免れえないし、世間からはそのようにみられている部分があったし、同時に、自分が何か携わったわけではないものの、世間に申し訳ないとも感じた。

経産省も、ビッグモーターも、ジャニーズ事務所も、形態や規模の違いはあるにせよ、同じ組織である。一億総懺悔と言う言葉もあったが、例えば戦争の責任については、国民である以上、意思決定に直接に関わったかどうかと関係なく、あると認めざるを得ない。ジャニーズのタレントだけが、日本における組織の軛(くびき)から逃れられると思うのは間違いである。

3. 本当の課題

ここまで、組織人が免れられない責任、所属しているというだけで発生する責任、特に日本社会におけるその相対的重さについて書いた。もちろん、今回のことは、ジャニーズ事務所だけでなく、見て見ぬふりをして取り上げてこなかったメディア(更に言えば、急に手のひら返しで連日取り上げているメディア)にも責任があるし、告発本や訴訟等でそうした事実を知る立場にいながら、起用し続けていた公的機関などにもある。

そうした前提に立ちつつ、ここで日本社会として様々なアクターが「責任を取る」とはどういうことであろうか。例えばジャニーズのタレントが、起用の取りやめなどにより社会的制裁を受けることもその一つではあろう。しかし、最も重要なのは、構造的な問題・課題から目を逸らさず、本質的な解決を目指して努力することであるのは論を待たない。

先の大戦で敗れた日本は、「敗戦」を何となく「終戦」と言い換え、戦争指導者だけに責任を負わせて、何故、戦争に走り、結果負けたのか、という「反省」をしてこなかった。象徴的に書けば、「後悔」はしても「反省」はしてこなかった。個々人の述懐や学者等による研究は多々あるが、そもそも、何故あの戦争に突き進んでしまって、何故負けたのかについて、国家的に「反省」して分析をし、次に向けてのステップについて詳述した公的文書を、私は寡聞にして知らない。

今回のジャニーズ事務所を巡る問題では、一体、何が本質的問題で、何を反省して次から正さなければならないのか。あんな問題もあったね。タレントさんたちは可哀想だったね、で済ませてはいけない。私見では、一つには、歪んだ利権を生み出してしまう閉鎖的な構造があり、一つには、そうした構造の中で大きなものに頼ってしまい、自ら、個の能力を見極める目を持たない放送局や政府などの発注側の問題があると思う。そのことについて少し書いてみたい。

まず、最初の点だが、ジャニーズ事務所、ひいてはジャニー喜多川氏が歪んだ使い方をしてしまった「大きな影響力」を持った要因の一つに、テレビ局などの放送局側への強いツテ・コネがある。

放送の免許は限られていて、使える公共の電波には限りがあるため、その限られた枠を得るために、事務所間やタレント間の過当な競争があるわけだが、そこを勝ち抜いて、勝ち抜くばかりか、いわば、力関係を逆転させてNHKをはじめとする放送局側を一種ひれ伏せさせてしまったのが、ジャニー氏であり、ジャニーズ事務所だ。

競売や入札などの形ではない形、すなわち、どういうタレントをどういう番組で起用するかについての一種の密室でのディール可能性がベースとなって、そのバーゲニングパワーの強さが権力化した。その力を歪んだ形で使ったことで今回の性被害は起きている。今回は男性間での性被害が大きな問題となっているが、構造的には、その力が、男女間の性被害の問題や金銭問題等々の様々な問題を生みかねない温床となっていることは間違いない。

こうした権力の集中・利権構造は、この世界においては、中長期的には自然に解消していくとは思う。“放送局対マス(大衆)”という暗黙の前提があった「放送」の世界と、“個人同士1対1”の間での伝達という暗黙の前提があった「通信」の世界の垣根が崩れて久しいが、YouTuberたちの活躍、アマゾンプライムやネットフリックスの躍進を待つまでもなく、通信の世界で既に、マス(大衆)向けという発信が常態化している。電波の占有による放送の独占ということの強みや意義は薄れこそすれ、強まる方向にはないのは確かだ。

とはいえ、放送免許を持っていることの強みは当面は続くであろうし、限られた利権が利権の温床であるという点は変わらない。ここにおいて重要になるのは、政府や大企業に所属する個々人が意識して今回の事件を反省し、こうした利権を崩して行く努力をすることである。上記のような影響力や利権の自然融解を待つのではなく、人為的に崩していくことが大切だ。

より具体的には、例えば政府であれば、どこか特定の事務所との契約などによりインフルエンサーやタレントの起用を継続的にゆだねるのではなく、自らのニーズや必要な効果を想定して、それぞれに活躍する個人、個々のタレントやチームを起用する姿勢を持つことが重要だ。

これは、官公庁や自治体などの調達問題で言えば、いわゆるベンチャー調達やトライアル発注と近い考え方である。つまり、自治体や官公庁が、大手企業の製品やサービスを活用するのではなく、多少のリスクはあっても、創業や新たな事業展開を促すべく、新しい企業や事業の製品・サービスを活用するということである。

今回の問題を奇貨として、まずは自治体や官公庁、特に紅白歌合戦を放映している公的機関であるNHKなどが、これまでのようにジャニーズのような大手事務所との契約で、言われるがままに有名タレントや歌手、バンドなどを起用するのではなく、自ら才能を発掘するべく、入札のような形態をとって、むしろ、個々に活躍する主体を番組や広報に採用してはどうか。

これは、社会や組織としての姿勢・意思の問題でもある。いうまでもないが、どういう言説を吐くかではなく、どうした態度を見せるかが、その組織の本質を体現することとなる。チャレンジャー、挑戦者、新しい芽を重視することを、姿勢・意志として見せることが求められている気がする。

4. 最後に

ここまで、いわゆるジャニーズ問題について、主な課題、反省点について述べてきたが、最も本質的に大事なことは、「変える力=変革力」を取り戻すことである。今回、日本社会は私も含めて、何となく知っていた問題に目をつむり、見て見ぬふりをして、まるで問題がないかのように、ジャニー氏をのさばらせ、ジャニーズタレントを起用し続けてきた。社会の木鐸であるべきメディアが最重要戦犯であるが、全く現状を変えようとしてこなかった。

ハーバード流に言えば、変革力とはリーダーシップのことである。本質を見て、それを変えるために物事を変革していく力。それを私は「始動力」として、リーダーシップの翻訳を指導力という誤訳から始動力に変えようとしているところだが、まさに、このジャニーズ問題では、日本の組織、日本人の始動力(リーダーシップ)が問われている。