明治神宮外苑再開発では賛成派も桑田佳祐も和解できる --- 宮室 信洋

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サザンオールスターズの新曲『Relay~杜の詩』は、神宮外苑の再開発を受けて桑田佳祐が歌詞を書いたものだ。同曲の歌詞は、直接的な反対運動のメッセージ・ソングとなっているわけではない。同曲の歌詞は、反対運動の手前の話し合いに焦点を当てたものとなっている。

歌詞のメッセージの考察も併せて、 神宮外苑再開発問題の賛否の構造について考察する。

倉本圭造氏の尽力と補うべきもの

神宮外苑再開発の背景や構造は、倉本圭造氏がnoteなどで解説することで、一定程度理解されているものと思われる。特に、最新関連記事では、これまでの「中立的な再開発賛成側の立場ではあるのだが、いわゆる資本側の論理を積極的に説いてしまっているように見える構成」から、かなり脱却できているようだ。

いずれにせよ価値論として、経営コンサルタントゆえか倉本氏の理解は経済的価値観が強いようにも思われる。またそれは必ずしも倉本氏のせいでないとも言えなくもない。倉本氏の説明を価値論的・思想的に補う必要があるとも言える。倉本氏の尽力は大いなる功績ではあるが、もっと反対派の立場に立って和解を求めることも不可能ではないだろう。

倉本氏も説明するように、神宮外苑再開発問題の最大のポイントは、明治神宮は主に私有地であり、明治神宮内苑の維持や、外苑の建て替え費用を賄うのに、三井不動産と伊藤忠商事を巻き込んだ再開発が必要という点だ。

基本的に再開発賛成側は、私有地としての明治神宮の経営問題の絶対性と、再開発コンセプトの行き届いた配慮を主張するわけだが、反対側は様々な懸念を表明している。

特に問題となっているのは、樹木を約1000本伐採する計画に対してだ。他には情報公開などの上での強引な手法や風致・景観の問題。樹木伐採の問題には倉本氏も含め、新植などによって最終的には緑地面積は5%増える計画であるとして反論する。

そもそも、詳細をよくわからず反対している人が多いという点は確かにあるようだ。またそもそも反対派も含め、森林を伐採せずに守ることはどういった価値によるものかを理解するのがなかなか難しい。

倉本氏は式年遷宮などを例に挙げ、人の手によって変え続ける日本の伝統を主張してもいる。確かに生々流転の観念、柔軟性は日本の文化であると言えるだろう。しかし、それでもって古きものを守ることに反論できるものなのだろうか。「木は切った分、増やせば大丈夫」というものなのかも、そもそもよくわからない。

そこで森林の専門家の見解が有効となる。森林ジャーナリストの田中淳夫氏のブログでは、神宮外苑の樹木について、街路樹や公園木であって、量や生態系に関する質についても貴重なものか田中氏は疑問を呈している。ただし、林業関係者は、再開発賛成派が度々利用する「若木ほどCO2を吸収する」という説に対し、常に反論しているようだ。また田中氏を含め、林業関係者は常に、気まぐれに反対運動をする人々に苦言を呈している。

林業関係者の視点をとれば、賛成派も反対派も等しく距離をとられ、いかに政治的イデオロギーの騒動に過ぎないかが見えてきてしまう。しかし、再び賛成派・反対派両者の視点に戻り、了解の道を追求したい。

倉本氏の視点は、いわゆるリベラル層が身勝手な批判をしがちであることへの問題意識が強いようだ。林業関係者の視点からしても、そうでなくとも、SNS上ではなされがちな重要な批判だろう。確かに反対者は、実行側の視点に偏見なく寄り添う姿勢が必要である。一方で、また逆も然り、反対派の視点に寄り添う必要もあるだろう。

リベラル側が追求すべき思想

まず批判的に反対派に寄り添えば、反対派には、市場主義へのアレルギー的な批判がある。格差を否定しない、いわゆる新自由主義的な市場原理主義は、確かにリベラル層にとっての批判の対象ではあるが、市場そのものは否定される必要はない。市場経済によって多くを解決するアダム・スミスの経済思想も、道徳的な市場経済を支持するもので、明治神宮に協力する企業らの姿勢は道徳性を伴うものだろう。リベラル層は実行側に寄り添うだけでなく、市場経済のポテンシャルを理解する必要がある。

一方で、より反対派に寄り添えば、「ほんもの」と言えるような善さの追求は重要だ。社会学者ジョージ・リッツァが言うように、伝統的なものを残すことは、より「ほんもの」と言える善さの追求につながる。リベラルであり、かつ保守の思想を理解するものだ。

以上の通り、どうやら神宮外苑の樹木伐採はそれほど懸念されない面もあり、何より明治神宮内苑・外苑の経営上、有効な民間的な解決の道をとるものだと理解できそうだ。もちろん 再開発には景観の問題もあり、また木々の成長は望ましいものであり、再開発反対側の視点をとれば、諸手を挙げて賛成するものではなく「必要な妥協」と理解すべきとなるだろう。個々人の価値は収斂するものではない。

また神宮外苑の再開発が問題の少なそうなものであったとしても、反対派の懸念は自然に理解できるものと確認もできたのではないだろうか。

大量生産・大量消費・似たようなバリエーション・大量複製コピペ文化・市場主義の時代に、「かけがえのなさ」やアイデンティティは重要なキーワードである。リベラル層に寄り添う姿勢も間違いなく必要だ。リベラルな「かけがえのない」都市づくりを追究する姿勢が広く理解される企業が現れ、増えていくならば、合意や収斂により近づくことも可能だろう。

市場の力をよりよく発揮するには、リベラルに寄り添う企業のビジョンもありえるかもしれない。またリベラルな都市づくりのビジョンは、リベラル層自身が追究しなければいけないことでもある。経済的価値の強さは形式性にあり、リベラルな理念の弱さは経済的価値に対する曖昧さにあるのだ。しかし、経済的価値のような功利主義に甘えることは解決への単純化でしかないだろう。

曖昧な理念の追究は、市場主義者以外のリベラル・保守・愛国主義などといった曖昧な区別を超えるより普遍的な理念となるのだ。

桑田佳祐のメッセージ

桑田佳祐の歌詞はよく読めば、必ずしも反対運動を歌っているわけではない。何より桑田が訴えかけているのは、どうなってしまうのか教えてほしいというメッセージだ。もちろん桑田が外苑再開発問題を調べていないわけではなく、それでも本当の答えがわからないこともあるだろう。いやむしろそればかりと言ってもいいかもしれない。まさに求められているのはリベラル層に寄り添う姿勢であり、最終的には対話のある社会像である。

確かに批判にあたる反対運動も多いだろうが、そうでなくてもわからないことは多い。人々はあまりわからずとも、ニュースメディアを求め、ときには反対運動にも参加する。人々は社会を求め、社会を理解したがり、社会とともにあろうとするのだ。

桑田の歌詞は、たとえば中立的な外苑再開発賛成派の倉田氏が望む、対立を超えた対話のあり方を歌っていると理解することすら可能だろう。とにかく反対派を批判しなければならない程、反対派の権力が強力なわけではなく、倉田氏はリベラル層を応援、あるいは少なくとも叱咤激励する立場でもあるはずだ。倉田氏の尽力のお陰で、不毛な対立を超える1歩が桑田とともに現状進みつつあると理解することも可能である。

宮室 信洋
メディア評論家。人文・社会科学系の博士号も所持するメディア評論家が、大学お笑いサークルでの経験なども活かし、エンタメ、サブカル、ネット世論、政治・経済・社会に関する記事を投稿。テーマは「笑いと音楽と学術の交差点」。