最高裁、性同一性障害に関する判断についての私見

最高裁の大法廷というのは重要な事件を扱い、違憲判決は大法廷でしか判断されない極めて意味ある司法の場です。最高裁の15人の裁判官がずらりと並ぶその法廷は威厳があります。

最高裁判所大法廷 NHKより

その中で今回、性同一性障害について戸籍上の性別変更を行うにあたり、法律で定めた「生殖機能をなくす手術」をその要件とすることは「憲法が保障する意思に反して体を傷つけられない自由を制約しており、手術を受けるか、戸籍上の性別変更を断念するかという過酷な二者択一を迫っている」(NHK)として違憲と判断しました。

平たく言えば生殖機能を保持したまま、男性⇒女性、ないし女性⇒男性になれる道筋ができたわけです。つまり男性が女性に転換し、その後、その方のパートナーと子供ができることも論理的にありうるわけで、女性が女性を生んだ、あるいは男性が男性を生んだというケースも生じるわけですが、それについて最高裁はレアなケースだろうし、仮にそれが生じたとしても解決する手段はある、としています。

もう一点、議論を呼びそうなのが外観であります。15人の裁判官のうち、3人が外観要件も違憲、つまり、例えば女性になろうとする男性に男性の性器があることは違法だとする法律も違憲だと主張しましたが、残り12人の裁判官は高裁に差戻しとしました。

本判断については世論が分かれるところだと思います。例えば櫻井よしこ氏は「15人で国の根幹を変えてよいのか」(産経)と声を上げています。ある意味、個人の価値観や倫理観に根差すところも大きく、裁判所の判断を「あぁ、そうですか」と単純に受け入れらない気持ちは当然あるわけです。

ですが、今回の判断はあくまでも生殖機能に限ってであり、性器の外観については判断されていません。生殖機能は保持したまま、性転換を認めるのは世界の主流になりつつあることは事実で、倫理観は確実に変わってきています。裁判官が15人共、同じ意見だった点は尊重すべき判断だろうと思います。つまり、社会は変化するのであり、判断は時々変わるのだ、ということです。

司法の判断は制定法主義(成文法主義=大陸法)と判例法主義(英米法)があります。日本は制定法主義で北米は判例法主義です。何か、というと日本では「法律にこう書いてあるじゃないか!」というのが一番正しい主張です。ところが北米は「違うだろう、世の中は古くて時代にマッチしていない法律を受け入れていないのだ」という発想のもと、裁判における判断は必ずしも法律に基づいたものではないのです。そしてその判例は時代と共にどんどん変わりますので不変の概念はないともいえます。

制定法の場合、成文を見直す機会が非常に少なくなり、国会議員に拠るところとなりますが、社会でトラブルになったり弱者の声が十分に反映されないこともあります。最高裁大法廷はその点において修正が必要な法律について司法の立場からそれを判断するのです。と言っても戦後わずか12例しかありません。

さて、今回の判断、個人的には妥当だと思います。但し、次のステップである性器の外観についての変更基準についてはより社会を巻き込んだ論争になると思います。それは日本が公衆浴場や温泉が社会的にも生活一般としても当たり前の存在となっており、そこに変化球を投じた場合、社会が受け入れるのか、という問題があるからです。一部ではセキュリティの問題(似非性転換者による犯罪)を指摘する声もありますが、それ以上に倫理上の問題がより難易度が高いと思います。

海外では公衆の前で素っ裸になることはほぼないのです。温泉は水着着用ですし、人前で体を洗うという行為がそもそも常識観として極めて少ないと思います。昔、私の通っていたカナダのフィットネスクラブのシャワールームは一つの大きなスペースにシャワーが10本ぐらいあって皆でワイガヤしながらシャワーするというgood old days のスタイルでした。今ではこんなところはないのではないでしょうか?

歌舞伎町タワーの男女共同のトレイも結局、その進歩的発想は逆転し、通常の男女別になりました。これもセキュリティ問題というより、私が思うのは「女性の園の裏側」という発想で、そこは「男子禁制」なのです。これを解決する手段として男子用、女子用、共用の3つのドアを作っているトイレがカナダにはあちこちで見かけます。但し、日本でそれをやれば女性の方が時間がかかるため、共用スペースは女性に実質占拠されるのでしょう。

現実的な解としては異論は多いでしょうが、普通の人も性同一性の方も権利の主張ばかりでは共存する社会故にある程度の折衷を受け入れてもらうしかないと考えます。将来、外観を要件としなくなっても例えば、温泉なら家族風呂があるのです。つまり双方が権利の主張ばかりしても全てを満たすことはできない、だからこそ、全ての人が一定の寛容さをもち、相手を理解しようとする配慮が必要なのだと考えています。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年10月26日の記事より転載させていただきました。