もしも学校内の事件に巻き込まれたら?:転校生のバットと私の記憶

文部科学省は「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」を毎年公開している。小・中学校の不登校の実態をまとめたレポートだが、背景、要因についてほとんど触れられていない。活きた情報ではないので、何らかの事件が発生しても役立てることができない。

もし、自分の子供が同じような被害にあった場合、どのような策を講じればいいのか。今回は、私の事例を交えながら、この問題について言及してみたい。

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いじめられっ子、パトカーに乗る

さて、私が中学3年生の時に、A君(ここではそう表記する)が転校してきた。A君は前の中学校で事件を起こして転校を余儀なくされている。生徒は誰もこのことを知らない。たまたま、私のグループ(クラスのいじめられっ子グループ)にA君がはいってきた。

ところが、やはり変わったところがあるのだろう、些細なトラブルがあり、誰も口をきかなくなる。クラスの他の人たちとの交流はないから、一人ぽっちになってしまった。

担任から、もう一度仲良くするように言われたので、A君の住んでいるマンションに皆で行くことにした。マンションの呼び鈴を何回か押したが反応がない。「仕方ない、帰ろう」と思ったところ、A君がバットを振り回して襲い掛かってきた。

「お前ら、オレをやりにきたのか!」

気が付いたら、私はバットの餌食になっていた。腕とあばらに激痛がはしった。グループの友達も数人が叩かれるなど被害を負っていた。ちなみに私たちは何もしていない。一方的に打ちのめされただけである。

10分くらい経っただろうか、パトカーと救急車がやってきた。被害者のはずだが、パトカーに乗せられた。いま考えると、A君の両親が呼んだのかも知れない。過去に事件を起こしているのだから、そうならないように先手を打った可能性はあった。

「シュプレヒコールの波、通り過ぎてゆく……」

金八先生の「腐ったみかん」で流れた中島みゆきの「世情」がデジャブする。

じつは、このあとの記憶がすっかり抜け落ちている。映画やドラマで記憶喪失のシーンを見ることがある。まったく同じ状況なのだ。どうしても思い出すことができない。その後、担任が警察署に迎えにきて帰路につく。親にはクラブ活動のメンバーと食事をしてきたと話して、そのまま部屋に入ったことだけは覚えている。

次の日、私を含めた全員は朝から校長室の前に正座をさせられた。誰がどう見たって、「いじめられっ子グループ」が悪さなどするはずがない。ところが、学校は私の意見を聞こうともしなかった。挙句の果てにどうなったのか?

教師の嘘と圧力に翻弄される

担任は「尾藤がやったって言わないと内申書を書かないぞ!」と、みんなを丸めこもうとしていた。全員すぐに落ちる。事件があってから2日後、突然、身体が動かなくなった。学校まで行こうとするが校舎を見たら涙が止まらない。

いまなら“うつ”っぽい状況だとわかるかも知れない。当時はそんな言葉すら知らない。両親は私の異変に気づいていた。その日の夜にすべてを打ち明ける。翌日、父が学校に連絡をするが“けんもほろろ”だった。

「お宅のお子さんは大勢を引き連れて、一人の生徒の家に殴り込みにいったんだ!」
「内申書を書かないことだってできるんですよ!」
「少年院に入れることだってできるんだ!」

場合によってはここで泣き寝入りをするケースもあるのだろう。幸いにも父は教育関係者と親交が深かった。そこから中野区に照会をいれてすべてが判明した。

  • A君は前の中学校で事件をおこし転校を余儀なくされた。
  • 現中学校は受入れ先であるから、A君が再び事件を起こすことは許されなかった。
  • よって、尾藤君にすべての責任を押し付けた。

私も教育委員会に呼ばれて直接説明を聞かされた。簡単に説明しているが、ここに至るまでに事件発生から2ヶ月近く掛かっていることを付記しておく。

日本でひとりの再挑戦を選択する

通学できないため、家庭教師が毎日来るようになっていた。現役の東大生である。家庭教師も私の状況を理解してくれた。高校受験の模擬テストの出題傾向がよくあたる先生だった。そして、受験シーズンの2月を迎えることになる。

2学期の内申書(成績と出席状況)が悪いため私立一本に絞った。受験した高校は合計10校。しかし、結果は二次試験を含めて全滅だった。人としての尊厳を踏みにじられるような面接を何回も経験した。そのとき、確信した。学力をいくらつけても意味がない。内申書を変えないことには高校にははいれないのだと。

私は中野区立第三中学校の卒業予定だったが、卒業したら内申書はそのままだ。内申書を変えるには中学三年をやり直すしかなかった。つまり、留年するしかなかった。学校は必死になって、あの手この手で卒業させようとした。しかし私の意思は固かった。

「両親の実家がある大田区に住所を移して、大田区の中学校から中野区に転入してきたことにします」と教育委員会から連絡があった。

「さすがに、同じ中学校でやり直すと……下級生と同じクラスですからね」
「他の中学校に転入する方向でうまく対応しておきます」

受入れ先は、中野区立第二中学校だった。教育委員会の人に聞いた。

「私のように区立中学(公立)を卒業せずに留年する人は日本で何人くらいいるんですか?」

その人はこう答えた。

「尾藤君だけだと聞いています」

そっか、日本でオレだけだったんだ。そして最後まで、担任を含めた関係者から謝罪の言葉は無かった。どこから聞きつけたのだろうか。大手雑誌社の数社から取材依頼があった。私は話したかったが周囲にとめられたので断念した。

友達の存在に救われた一年間

不安が無かったわけではない。中野三中では信頼できる友達がいなくなっていた。私のグループは5人組だったが、全員が「尾藤にそそのかされてA君の家に行きました」という反省文を提出していた。当然ながら人間関係は崩壊した。

お詫びなり、相談があればよかったがそんなものはない。何人かの父母からは、「うちの子供を巻き込まないでほしい」という哀願があった。彼らが学校に来て、担任にペコペコしている姿をみて、「終わったな」「ひどいな」「はめられた」と感じた。

中野二中では頑張ってどうにか一年をやり過ごそうと思っていた。一年我慢すればどうにかなると。ところが、中野二中での生活は思ったより楽しかった。友達なんかできないと思っていたが、転校初日に話しかけてきたクラスメイトがいた。

かりにS君としておこう。彼はハンサムで、ナチュラルなソフトリーゼントが格好良くみえた。根が優しいダンディな男だった。ロックが好きでコンサートにも行った。通販のギターで練習したり、はじめて麻雀を覚えたのもこの頃だった。

友達の存在が嬉しいと思った。S君とはいまでもたまに連絡をとることがある。私も数年前までは同窓会に顔を出していた。彼の存在がなかったら、中野二中での生活は辛いものになっていただろう。いま思い出せば楽しい一年だった。留年という選択が間違っていないと確信した。

人生に折り合いをつけるとは?

ちなみに、私がこの話をメディアに公開するのは初めてである。少しずつ話せるようになったのは数年前、つまりごく最近のことだ。なんで話せるようになったのか? それは自らの人生に折り合いがつけられるようになったからだと思う。

じつは、今回紹介した事案に関しては調査(教育委員会への照会)をしようと考えている。当時は、次の3点について確認するものの回答は得られなかった

  1. A君がどのような事件を起こして転校してきたのか
  2. 私の転入が最終的にどのように決定されたのか
  3. 私の事案に対する謝罪、責任をどのように考えるのか

1.については個人に関わる重要情報であったことから伏せられていたものと考えている。しかし、私が被害を負った根幹なので詳細は知りたいところである。2.3.については情報公開請求の対象事案になると期待している。

もし明らかになれば、学校でトラブルに巻き込まれた際の有益な情報として役立つのではないかと考えている。中野区教育委員会への照会が終わり次第、またレポートにしてお知らせしたい。

【補足】

1980年代、校内暴力が社会問題化していた。生徒が教師を襲ったり、教師が生徒を殴るのも当たり前の時代だった。現在とは時代背景が異なっていた。

私は15歳のときこのような経験した。同級生の父母からは、「尾藤君はもう終わりね」「もう立ち直れないだろう」と言われ、ゴシップに辟易したのを覚えている。確かにかなりのハンデになったことは間違いない。

中学校卒業後は無事に、高校~大学に進学した。その後、大学院に進学し、経済学と経営学を修了してダブルマスター(経済学修士、経営学修士)も取得した。本も21冊出版し、発信力の高い識者として紹介される機会も増えた。上場企業や事業会社の役員もそれなりに経験した。まだ何者にもなれていないが、いまを楽しんでいる。

最後に、いじめにあっている子供や、つらい思いをしている人に、「必ず道が開ける」ことをお伝えしたい。挫折はとらえ方次第でどうにかなるものだ。よほど、外れたことでなければ「必ず道は開ける」のだと信じている。

若い人には時間がある、しかし時間は無限ではない。

あなたの成功を、こころから祈念しています。