ひろゆき・ホリエモンはなぜ間違ってしまうのか?専門家が陥る大きな罠

先日、AbemaTVでこんな放送があった。

ひろゆき氏いわく、

延命治療は保険適応外で、やりたければ自費で

との事である。

世界を見れば確かにそういう対応を取っている国も多いわけで、この発言は一件合理的に思える。

また、ホリエモン氏はこう言っている。

新型コロナワクチン、これは人類がDNAをハックした素晴らしき記念日。こんな最先端のテクノロジーをただで受けられる。僕は喜んで打ってますよ。

たしかにmRNAを使って新しいワクチンを創出するというのは、新しい技術。人類の叡智かもしれない。

ただ、本当にそこまで信じても良いのだろうか?

僕はこのお二人の発言の根底に「専門家が共通して陥ってしまう大きな罠」が存在すると思っている。

今回はその話をしてみたい。

究極の介護は「現場で悩むこと」

先日、介護界で注目のエキスパート、中迎聡子氏と対談した。

その時彼女はこう言っていた。

他の施設で介護経験のある方がうちで働き始めると、多くの人が戸惑うんです。うちには決まった業務やマニュアルがないから。

おじちゃん・おばあちゃん一人一人の思いや状態は、その日その時でまったく別のもの。朝ごはんをちょっと遅く食べたい人もいるだろうし、今日はお風呂に入りたくないという人もいるかもしれない。その場その場で状況を判断し、悩んで考えて、臨機応変に対応しなければいけない。だから決まった業務やマニュアルはかえって邪魔なんです。

でも、決まった業務に慣れている新人スタッフはマニュアルがないと不安に思い、「私がこの職場でキビキビ動けないのはマニュアルがないから」と思ってしまう。そしてマニュアルを作ってくれと私に言ってくるんです。介護施設はじめて20年、私はこのような声と戦ってきました。マニュアルを絶対に作らないことを徹底してやってきたのです。マニュアルを作った途端にスタッフが現場で考えなくなってしまう、悩まなくなってしまうからです。

もう一人の介護の達人・加藤忠相氏も著作「あおいけあ流介護の世界」の中で「マニュアルで介護はできない」という言葉を用いて同じことを表現されていた。

スペシャリストとジェネラリストの相違点

冒頭のひろゆき氏・ホリエモン氏の発言と、介護界のエキスパートお二人の発言。

両者は非常に対照的である。

前者のお二人は、「保険の対象から外すこと」や「新型コロナワクチン」というシステム改善や新技術など「何らかのマニュアル的法則」が世界を変えてくれると言っている。

一方、後者のお二人は、そうしたマニュアル的な対応では世界は変わらない、その場その場で悩んで考えろ、と言っているのだ。

両者の違いはどこにあるのだろうか?

ここに「スペシャリスト」と「ジェネラリスト」という補助線を引いてみるとわかりやすいかもしれない。

スペシャリスト(専門家)の世界は、「専門」というだけに比較的小さな世界を扱い、その中で成立する法則や理論を語る世界観である。

その小さな世界観の中では、線形的(linear)な論理展開が可能なことが多い。

物理の世界では、物を投げれば放物線を描いて決まったところに落ちる。それは物理の法則に従って、方程式に数値を代入すればその通りに物事が進む、線形的な世界観なのである。

感染症専門家もそうだ。ワクチン・マスクなど感染を制御されているとされていたものを社会に実装すれば、感染は収束する。線形的な思考で考えれば、そのとおりに進むはずだった。

しかし、現実社会は物理法則のように線形的に動くものではない。

物を投げても風が吹けば落下点は変わるし、ワクチン・マスクで感染が制御出来たのか、も未だに世界では議論が続いている。

我々が住んでいる実際の世界は、専門家が実験室の中で行うような綺麗なモデル空間ではなく、様々な事象が複雑に絡み合った「網の目」のような世界なのである。そこは決して線形の論理では対応できない、「非線形(non-linear)」の世界観なのだ。

特に高齢者医療や介護の現場は「非線形(non-linear)」の典型だ。

人々の生活を扱う高齢者医療・介護の現場は、数え切れないくらいの多種多様で複雑な要因が絡み合って形成されている世界である。

そんな世界に法則やマニュアルが通用するわけがない。介護のエキスパートたちはそういうことを言っているのだ。

そこで求められるのは、小さな世界の法則を観察する「スペシャリスト」ではなく、総合的な視野を持つ「ジェネラリスト」なのである。

一方、ひろゆき氏・ホリエモン氏は、専門性を高く評価する方々なのだろう、専門性や専門家の「スペシャリスト」的な言説、マニュアルや法則で世界を変えらると言う世界観の中から物事を見ているように感じる。

鉄の檻は狭まっている

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ドイツの社会学者マックス・ウェーバーはかつて「鉄の檻」という表現を用いて、社会システムの構築はシステムの中に個人を閉じ込めてしまう、と言った。

目的論的な効率・合理的な計算に基づいた「スペシャリスト的・線形世界観」によるシステムやマニュアルが、逆に人間の可能性を限定し、生活を窮屈にすると言ったのである。

考えてみてほしい。もし今後、「自動運転」が普及したら、GPSを内蔵したマイクロチップを子供の体に埋め込んだほうが良いのだろうか?

スペシャリストの線形世界観だけで考えれば、それがベストだろう。

子供の位置情報がわかっていれば、自動運転の車を近づけないこと、死亡事故をゼロにすること、は容易に出来るだろうから。

しかし、我々は果たしてそれで幸福になれるのだろうか?

システムという名の「鉄の檻」はどんどん我々の生活を小さな世界に閉じ込めて行ってしまっているのではないだろうか?

専門家・スペシャリストの導き出す比較的狭い世界の「正解」を頼りに社会システムを構築していって本当に大丈夫なのだろうか?

もっとジェネラリスト的な大きな思考を取り入れたほうがいいのではないだろうか?

僕は、ひろゆき氏・ホリエモン氏の発言と、介護のエキスパートたちの発言を比較して、こんなことを考えた。

皆さんはどうお思われるだろうか?