『論語』の「為政第二の十」に、「其の以(な)す所を視、其の由(よ)る所を観、其の安(あん)ずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや、人焉んぞ廋さんや」とあります。つまり、「人の一挙一動を見て、これまでの行為を詳しく観察し、その行為の動機が何なのか分析する。そして、その人の安んずるところ、つまり、どんな目的を達すれば満足するのかまで察する。そうすればその人の本性は隠しおおせられるだろうか?決して隠せおおせないものなのだよ」と孔子は言うのです。「視・観・察」で、人を見抜くことは極めて有力な方法だと思います――之は嘗て此の「北尾吉孝日記」で、『人物を見極める』という中で述べた言葉です。
人物鑑別については、中国明代の著名な思想家・呂新吾の『呻吟語』にも沢山出ています。その一節に、「四看(しかん)」ということがあります。第一に、「大事難事に担当を看る」。事が起こればその担当官の問題への対応能力を見るということ、併せて仮にそのような事において自分自身は如何に処するかを常に主体的に考えるということです。第二に、「逆境順境に襟度を看る」。襟度の「襟」は「心」を指し「度量の深さを見る」といったことです。世の中は万物全て平衡の理に従って動いており、良い時・悪い時に襟度を見ると言っています。第三に、「臨喜臨怒に涵養を看る」。喜びに臨んだ時に恬淡(てんたん)としているか、怒りに臨んだ時に悠揚(ゆうよう)としているか、といったところに涵養を見ると述べています。第四に、「群行群止に識見を看る」。その人が大勢の人(…群行群止)の中で大衆的愚昧を同じようにしているか、それとも識見ある言動をとっているかを見、人を見抜いて行くということです。
明治の知の巨人・安岡正篤先生曰く、「スイス近世の賢者ヒルティも、男も女も辛いこと、苦しいことに際して最もよく彼等を知ることができる。一番わからないのは社交の場、特に娯楽場や避暑地などであるといっておる。文明都市の社交生活ではその通りであるが、こう世界が乱れてくると、本当に人物がわかるではないか」(『百朝集』)とのことですが、私は人物を見極めることは非常に難しいことだと思います。トップというのは人を見るの明、そして人を用うるの徳といったものが求められます。国であれ企業であれ何であれトップにとって、どのような人を自分の周りに置くかは極めて重要です。上記の如く人の見方は様々ですが、「恒心…常に定まったぶれない正しい心」がどうかの一点こそが急所であると言え、此の恒の心を維持できる人が人物だと思います。トップは人物を得るべく、最大限の努力を払わねばならないのです。
最後に、渋沢栄一翁が「大事業を成す人の鑑識」(『処世の大道』)と題し述べられた次の言葉を御紹介し、本ブログの締めと致します――非凡の才識を具えられた人で、存外人物の鑑別眼に乏しい方が少なくない。いかに自分に才識がなくっても、人物についての鑑別眼さえあれば部下に優秀の人物ばかりを網羅し得られるから、自分だけの才略知能をもってするよりも遥に良成績を挙げらるるものである。昔から大事業を成した人は、自分の才識によるよりも部下に人物を得た人の方に多いように思われる。一人の才識知能はいかに非凡であるからとて、およそ限定のあるもので、そうそう隅から隅にまで及び得られるものでない。しかし、才識があり手腕のある人を遺憾なく部下に網羅して置けば、各その特技を発揮し、一長一短相補い、事業を大成し得らるるものである。故に、苟も大事業を成さんとするの大志ある人は、自分の才識によって事を遂げようとするよりも、人物を鑑別して適材を適所に配置し、部下に人を得ることに意を用ひねばならぬものである。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2023年12月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。