「進駐軍クロダ」が日銀に来襲して去った10年

池田 信夫

日本経済のこの10年を振り返ると、日銀の黒田総裁の特異な金融政策が、いろいろなハレーションを起こした時期だった。もともと安倍晋三氏はあまり経済に関心がなかったが、2006年に小泉内閣の官房長官だったとき、日銀の福井総裁が量的緩和をやめるのに反対したのがきっかけで金融政策に興味をもった。

東日本大震災の復興増税に反対する議連の会長にかつがれたころから、岩田規久男氏などのリフレ派との交流が始まった。本田悦朗氏(本書の情報源と思われる)が仕掛け人になり、安倍氏のまわりにリフレ派が集まり、「インフレ目標を掲げてマネタリーベースを増やせば物価が上がる」というカルト的な理論を教え込んだ。

消費増税先送りの「どえらいリスク」

安倍氏は岩田氏を総裁にしたいと思っていたが、これには財務省などの強い反対があり、実務経験のある黒田氏が総裁に指名された。当初は財務省も日銀も、黒田氏は霞が関の住民だからコントロールできると思ったようだが、彼の口癖はデマケ(役割分担)で、財務省の意見はほとんど聞かなかった。

そんな黒田氏が珍しく財政に口を出したのが、2013年9月の消費増税の集中点検会合だった。彼は金利急騰のリスクについて「確率は低いかもしれないが、起こったらどえらいことになって対応できないというリスクを冒すのか」と増税の先送りを批判した。政府債務残高のGDP比が「250%でも大丈夫かもしれない。(しかし)300%でも、500%でも、1000%でも(大丈夫か)といったら、それはあり得ない。どこかでぼきっと折れる。折れたときは政府も日銀も対応できない」と警告した。

この結果、2014年4月の消費増税は予定通り実施された。岩田副総裁もこれを黙認したが、退任後になって「リフレが失敗したのは消費増税が原因だ」と責任のがれをするようになった。

2014年の追加緩和も2016年のマイナス金利も効果がなく、2018年には黒田退陣論もあった。安倍氏は本田総裁を考えていたらしく、本人も「頼まれたら引き受ける」などとマスコミに言ったが、黒田氏と違って財務省の窓際族だった本田氏には財務省が強く反対し、副総裁にもなれなかった。

孤立無援だった雨宮副総裁

このとき黒田氏の異次元緩和を補佐した雨宮正佳氏が副総裁になったが、この人事にも異論が多かったという。日銀はOBが発言力をもっており、彼らは黒田総裁という「進駐軍」に屈服して日銀の伝統を壊した裏切り者として雨宮氏を批判した。

黒田総裁の後任は雨宮氏で決まりだと多くの人が思っていたが、本人は当初から固辞していたようだ。黒田=雨宮ラインは日銀の中では孤立し、財務省も日銀OBも雨宮総裁には反対だった。

彼らは後任に元副総裁の山口廣秀氏を推したが、これは黒田路線の全面否定になるので見送られた。雨宮氏は植田和男氏を推薦した。黒田氏は後継指名しなかったが、伊藤隆敏氏ならいいと考えていたらしい。

岸田首相の意中の人は雨宮氏だったが、彼は「異次元緩和を卒業するのは10年間ずっと黒田氏を支えてきた自分ではなく、フレッシュな総裁がやるべきだ」と固辞したという。指名直前に官邸が「考えは変わらないか」と念押ししたのが、日経の「雨宮氏に打診」という誤報になった。

進駐軍の去ったあと

黒田日銀の10年で、為替レートは黒田総裁の就任したときの1ドル=94円から、一時は150円を超える円安になり、企業収益は倍増し、日経平均株価は1万2000円から3万3000円まで上がった。

しかし肝心のインフレ目標は未達で、潜在成長率はほぼゼロになり、実質賃金はG7で最下位になった。日銀の供給したチープマネーはグローバル企業の資本コストを下げたが、ほとんど海外投資に使われ、国内の成長や雇用には貢献しなかった。ゼロ金利の資金はゾンビ企業の延命に使われ、労働生産性も下がった。

日銀の伝統はこの10年でも不変で、進駐軍が去ったあと元に戻ろうとしているようにみえる。リフレ派は日銀の事務方にバカにされ、黒田氏も後任の候補にあげなかった。植田総裁はマイナス金利などの名目は守っているが、金融実務は黒田以前に戻り、YCCも徐々に上限を引き上げて名存実亡にする方向だ。

日銀が黒田時代から継承したのは、2%のインフレ目標という無意味な数字だけだ。その理由は景気調整の「糊代」ということだが、財政で景気調整できるなら糊代は必要ない。進駐軍の遺産は清算すべきだ。

だがこのままでは日銀は、日本経済の「5番目の車輪」になってしまう。もう金融政策にできることはほとんどないとしても、社会保障給付が膨張する中で、財政をチェックする機関は必要なのではないか。財政と金融を総合した広い視野から、日銀の役割を見直す必要がある。