古代出雲と太陽信仰(前編)

藤原 かずえ

イントロダクション

日の本(ひのもと)という国号と日の丸(ひのまる)という国旗に象徴されるように、日本人にとって【太陽 the sun】はコミュニティのアイデンティティを象徴する特別な存在です。

天照大神(あまてらすおおみかみ)という大地に恵みをもたらすとされる【太陽神 solar deity】を最高神として崇め、【日出国 the land of the rising sun】という聖徳太子の言葉に誇りを感じるという精神性をもつ伝統的な日本人は、古来より太陽の年周期の運行によってもたらされる美しい【四季 four seasons】とその恵みに感謝し、太陽の日周期の運行によってもたらされる【日の出 sunrise】【日の入 sunset】を遥拝してきました。

そんな日本人の太陽との関係性は、縄文時代の遺跡からも認められます。三内丸山遺跡における構造物の空間配置は、太陽の運行から知ることができる南北及び東西という方向軸を持っています。

図-1 三内丸山遺跡の平面図

このことは、定住して植物採取・狩猟・漁労を行っていた縄文時代中期の日本人が太陽の年周期の運行を把握していた可能性を示唆するものです。また、遺跡北西部に位置する六本柱の堀立柱建物は概ね夏至の日出-冬至の日没の方位に主軸を持っています。

図-2 三内丸山遺跡の六本柱構造物

三内丸山遺跡年報13によれば、六本柱の主軸が夏至日出方位と1.6度ずれていることをもって、この六本柱は天体に関係した施設として建てられた可能性は大きくないと結論付けていますが、この推論は明らかに曲学阿世ともいえる【軽率な概括 hasty generalization】です。

縄文人が、夏至と冬至における日出・日没方位を経験的に概ね認知し(文字もなく教育も受けていない縄文人が観察により認知した日出・日没方位が理論的に正確な方位とは限らない)、この方位に合わせるように重量級の六本柱を配置させ、そのトップから眺望する遠方の地形と太陽の位置関係から夏至と冬至を同定し、生活に利用していたと考えてもなんら不思議ではありません。

また、生活域の北部に位置する主要構造物のさらに北側という非日常的な位置に存在していることから、この構造物は夏至あるいは冬至に太陽を遥拝する祭祀の施設であった可能性も考えられます。

さて、日本人が太陽との関係性をより強く意識したのは、米作が始まった弥生時代であると考えられます。米の生産において季節を正確に把握することは必要不可欠であり、弥生人は、現代人が時計やカレンダーを見るのと同じ感覚で、太陽の位置を確認していたと推論できます。

同時に弥生人は、季節に大きな影響を及ぼす太陽に対して畏怖の念を抱いていた可能性もあります。とりわけ、強い日射によって農産物の成長を促進する夏の太陽に対しては畏敬の念を抱き、これが太陽信仰に発展した可能性が推察されます。

実際、古代出雲に着目すると、偶然と考えるのは困難なほど、祭祀と葬礼に関連する弥生遺跡が夏至日没-冬至日出の方位に直線状に並んでいることが確認できました。以下、紹介したいと思います。

出雲地方の弥生遺跡の空間配列

第二次大戦後、神話が存在するだけで重大な歴史的価値はないと信じられてきた出雲ですが、1984年に荒神谷遺跡、1996年に加茂岩倉遺跡で大量の【青銅器 bronze ware】が発見されると、弥生時代の中期から後期にかけて強大な勢力が実在していたことが推定されるようになりました。

学術界では、出雲の遺跡から発掘された遺物に関する考古学的な研究が発展し、さまざまな歴史的考察が加えられています。ちなみに、実用に適した鉄器の出現と時代を共にする日本の青銅器は基本的に祭祀用と考えられています。

また、弥生時代の出雲で特徴的なのは、【四隅突出型墳丘墓 four corners protruding type tumulus】と呼ばれる大型墳墓の存在であり、弥生時代後期に多く建造されました。これらの弥生時代の主要な遺跡と四隅突出型墳丘墓を地図上にプロットしたものが次の図です。

図-3 出雲地方における弥生時代の遺跡・四隅突出型墳丘墓の空間分布

これらの遺跡の空間位置は、宍道湖東南部(松江市街南方)の墳墓群を除き、夏至日没-冬至日出の方位を指す4つのラインに奇妙なまでに乗ってきます。具体的には、西から①経島(ふみしま)、②猪目洞窟(いのめどうくつ)、③恵曇(えとも)、④加賀の潜戸(かかのくけど)といった日本海に面した特徴的な地形を呈するランドマークを北西端とするものです。

素直に考えれば、弥生人は、特徴的なランドマークを夏至日没-冬至日出の方位に臨む位置に祭祀・葬礼施設を配置させる信仰を持っていた可能性が伺えます。多くの主要な弥生遺跡・墳墓が天体物理的なラインに乗ることを考えれば、一定の蓋然性が存在すると考えます。

ここで、出雲の緯度における夏至日没-冬至日出の方位は、正確には東西ラインを約28度時計回りに回転した方位になりますが、図に描いたラインは東西ラインを30度時計回りに回転した方位です。

現実問題として、文字もなく分度器もなく三角関数の教育も受けていない弥生人が構造物の座取りにあたって28度という回転角を再現するのは困難です。その一方で30度という回転角は、正三角形の1辺を南北方位に一致させることで再現可能です。ちなみに正三角形は長さが等しい3本の紐(ひも)で作ることができ、南北方位は、太陽や星の日周期の運行から決定することができます。

実際、遺跡の配置も28度よりも30度回転の方がフィッティングの精度が高くなります。むしろ弥生人は、夏至日没-冬至日出の方位は東西ラインを30度時計回りに回転した方位であると認識していた可能性が伺えます。

また、あくまで偶然と思いますが、これらのラインは、出雲風土記の国引き神話に出てくる杵築(きづき)、狭田(さた)、闇見(くらみ)、三穂(みほ)という4つの地を概ね区分しています。地域を区分する入り江と岬がラインのターゲットになった可能性もあります。

なお、このエントリーのような【レイライン ley line】に関わる考察については、キワモノ系で胡散臭い印象がありますが、太陽信仰という宗教的なトピックに関して、事実に基づく【アブダクション=逆行推論 abduction】で蓋然的な仮説設定を展開する限り、むしろ必要な研究テーマであると考えます。

ストーンヘンジ・ピラミッド・マヤ文明など、世界各地には、天体の運行を反映した施設をいくつも作られています。太陽神を最高神としてきた日本において、このような可能性の議論にむしろ消極的な状況は合理的ではなく、残念に思います。そんな中で、【古天文学 palaeoastronomy】の実践を呼び掛ける渡部潤一氏の指摘はもっともであると考える次第です。


渡部 潤一『古代文明と星空の謎』(ちくまプリマー新書)

西出雲地方の弥生遺跡の空間配列

このエントリーでは、上述した4つのラインのうち、古代出雲を代表する遺跡群が存在する経島及び猪目洞窟をそれぞれ北西端とする2つのラインについて詳しく考察して行きます。まずは猪目洞窟を北西端とするラインから考察します。

図-4 西出雲地方における弥生時代の遺跡・四隅突出型墳丘墓の空間分布

a-1. 猪目洞窟遺跡

この洞窟について、出雲国風土記(733年)に次のような記載があります。

磯から西の方に窟戸がある。高さと広さとはそれぞれ六尺ばかりである。岩窟の内部に穴があるが、人は入ることができない。どれだけ深いかわからないのである。夢の中でこの磯の岩屋近くまで行った者は、かならず死ぬ。だから世人は昔から今にいたるまで、これを黄泉の坂・黄泉の穴と呼びならわしている。(吉野裕訳『風土記』)

古事記(712年)あるいは日本書紀(720年)で言えば、「黄泉の坂」は「黄泉比良坂」、「黄泉の穴」は「黄泉国」です。つまり出雲国風土記は、この洞窟を死者の国へのアクセス道と本体と考えているのです。出雲平野からこの洞窟を訪れるには、険しい山越か断崖が迫った海岸線を迂回することが必要となります。当時の人々も簡単にはアクセスできない神秘性を認識する場所であったことが推察されます。

ちなみに現在でもこの洞窟への交通アクセスは容易でなく(道路斜面の崩壊が多発)、「夢で見たら必ず死ぬ」などという危険極まりない心霊スポットを訪れる人は、相当な命知らずか、相当な物好きか、相当なマニアか、相当な鈍感に違いありません。そんな洞窟を、よせばいいのに、先日私は訪れてしまいました(笑)

図-5 猪目洞窟入り口

猪目洞窟は、断崖絶壁の岩盤斜面の下部を日本海の荒波が侵食した海蝕空洞(ノッチ)です。地質学的には、単斜構造を呈する中硬質の新第三紀中新世ハイアロクラスタイト中に存在する凝灰質リッチの脆弱層が差別的に侵食されたものと考えられます。弥生時代に黄泉の国の言い伝えがあったかは不明ですが、空洞の奥はまさに暗黒の世界(夜見の国)であり、弥生人が畏怖を感じても不思議ではない特徴的なランドマークであると言えます。

洞窟からは縄文時代の遺物をはじめ、弥生~古墳時代の人骨も発見されており(文献)、海葬を含めて出雲の有力者を葬る祭祀場、すなわち神域と現世界の境界である【磐境=いわさか】として利用されていた神聖なスポットであった可能性が高いと考えられます。

a-2. 青木遺跡

この遺跡には、弥生時代中期後半から弥生時代の後期後半まで山陰・北陸地方で建造された特徴的な墳墓である四隅突出型墳丘墓の遺構が発見されています(文献)。

出土した遺物から、この墳墓は弥生時代中期後半に建造されたものと考えられています。出雲で発見されている四隅突出型墳丘墓の中では最も古いものです。銅鐸の破片も埋葬されていました。出雲の首長の墳墓地であった可能性が高いと考えられます。

a-3. 荒神谷遺跡

日本の考古学史上の大発見の一つといわれる遺跡です(文献)。けっして見晴らしがよいとは言えない谷の斜面から他地域に類を見ない銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土しました。この斜面は概ね夏至日没の方向を背にしています。銅剣・銅矛は、斜面の走向(斜面と水平面の交線の方位)と平行になるように埋納され、銅鐸は、その長軸が斜面の傾斜方位と平行になるよう埋納されていました。

図-6 荒神谷遺跡

現地案内板によれば、埋納された時期は弥生時代中期後半から後期始めとのことです。この遺跡は、多量の青銅器を収集する実力をもつ出雲の首長の秘密の祭祀場であったものと考えられます。

a-4. 加茂岩倉遺跡

荒神谷遺跡と同様、日本の考古学史上の大発見の一つといわれる遺跡です(文献)。けっして見晴らしがよいとは言えない谷の斜面の平坦部に位置する磐座・磐境のような岩体から銅鐸39個が出土しました。岩体の長軸は夏至日没-冬至日出の方位と概ね平行であり、銅鐸の長軸もこの方位と平行に埋納されていました。

図-7 加茂岩倉遺跡

埋納された時期は明らかになっていませんが、遺物の種類と製造時期を考えれば、荒神谷遺跡と概ね同時代と推察されます。荒神谷遺跡との距離は約3.4kmという位置関係も考慮すれば、この遺跡は、荒神谷遺跡を祭祀場とした出雲の首長あるいはその従属者の秘密の祭祀場であったものと考えられます。

さて、猪目洞窟-青木遺跡-荒神谷遺跡-加茂岩倉遺跡と直線状に並ぶ夏至日没-冬至日出ラインにおいて、猪目洞窟が縄文時代から存在する自然のランドマークである一方、青木遺跡、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡は弥生時代中期後半から後期初めにかけて人工的に設置されたサイトです。このうち、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡には夏至日没の方向を意識して青銅器を埋納した形跡があります。

このような事実から素直にアブダクションすれば、「弥生時代中期後半から後期初めの出雲地方には、過去に猪目洞窟に葬った出雲の首長の祖霊を夏至日没の太陽神に重ねて拝む青銅器祭祀が存在した」という一定の蓋然性をもつ仮説設定が可能かと思います。

この場合に青木遺跡は、出雲平野に住む稲作コミュニティの首長が、アクセス困難な猪目洞窟を訪問しなくても夏至日没を目印に出雲平野から祖霊を遥拝できる場所と考えることができます。また、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は、首長が人目を避けて青銅器を埋納した秘密の祭祀場と考えることができます。当時の首長は、祭祀に用いた貴重な青銅器の盗掘を恐れ、青木遺跡とは異なる位置に秘密の祭祀場を設置した可能性があります。

また、青木遺跡は猪目洞窟に代わる首長の新たな墓地として利用されたものとも考えられます。仮に四隅突出型墳丘墓が荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡よりも先行して建造されていた場合には、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡における祭祀は青木遺跡に新たに葬られた首長への遥拝も兼ねていた可能性が考えられます。

なお、この夏至日没-冬至日出ライン上に存在する鰐淵寺(がくえんじ)は、飛鳥時代初頭の推古2年に創建された出雲を代表する古式ゆかしき勅願寺です。弥生時代の遺構や遺物はまだ発見されていませんが、修験場として使われた周辺地域には磐境のような特徴的な地形が多く存在しています。この地に勅願で寺院が設置されたことには、何かしらの意味があるのかもしれません。

次に経島を北西端とするラインについて考察します。

b-1. 経島

経島は、出雲地方の北西端である日御碕の西側に位置する扁平な小島です。地質学・地形学的には、当該地域の酸性火山活動によって生成された流紋岩あるいは石英斑岩が海成段丘地形を呈しているサイトであり、宗教学・文化人類学・民俗学的には、ステレオタイプの磐境の様相を呈しています。

図-8 経島(ふみしま)

この島からは、年間を通して、水平線に沈む太陽、太陽を飲み込む海、夜の始まりといった自然現象を臨むことができます。特に、日本海に面した最北西に位置することから、太陽のパワーが最大となる夏至日出を特上席から観察することができます。加えて、その方向の海の彼方には朝鮮半島の新羅が位置します。このように、経島は、太陽・海・夜・新羅といった信仰対象のいずれかを祭祀するのに最適な場所なのです。

神社本庁は、経島の対岸に位置して神の宮と日沈宮で構成される日御碕神社の由緒として次のように記載しています。

神の宮:神代の昔素戔嗚尊神功をおえさせられた後、熊成峯に登り給いて柏の葉をもって占をせられ「吾が神魂はこの葉の止まる所に住まん」とお投げになった。柏葉は神社背後の隠ヶ丘に止まったので尊は其処にお住いになったと云う。安寧天皇13年に勅命によって神殿を今の社地に御遷座せられたのである。

日沈宮(ひしずみのみや):神代の昔天葺根命(素戔鳴尊の御子神)当地の海岸に出でましし時、天照大御神が経島の百枝の松に御降臨ましました。開化天皇2年、島上に神殿が営まれたが天暦2年村上天皇の勅命により今の社地に御遷座せられ、以来「神の宮」と共に日御碕大神宮と称えられることとなったのである。

つまり、日御碕神社は、素戔嗚を祀る隠ヶ丘の神の宮と、天照大御神を祀る経島の日沈宮を遷座させて創建されたということです。ちなみに、天照大御神は日の神、素戔嗚は海の神であり夜の神(月読と同一神説)であり新羅に最初に降りた神(日本書紀)です。勿論、弥生時代に古事記・日本書紀の当該エピソードが存在したかは不明です。ただし、経島が弥生時代に存在していたことは地質学的常識です。

b-2. 出雲大社

出雲大社は、日本書紀で「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と呼ばれています。これは「日沈宮」と同様、日没を意味すると考えられています。また、日本書紀によれば、出雲大社は、天照大神をはじめとする天津神に国譲りを行った国津神である大国主命を祀る神社です。勿論、弥生時代に日本書紀の当該エピソードが存在したかは不明です。出雲大社は創建年代も不明です。

図-9 出雲大社

ただし、近隣の真名井遺跡では、銅戈とヒスイ製勾玉が出土しており、弥生時代からこの付近でなんらかの祭祀が行われていた可能性があります。

b-3. 矢野遺跡

出雲平野の中心に位置する矢野は、弥生前期末に稲作が定着した大集落であることが判明しています。装飾品や他地域との交流を示唆する遺物が出土していることから、首長の本拠地であった可能性があります。記紀で言う豊葦原瑞穂国を彷彿させる地域であったものと推察されます。

b-4. 西谷墳墓群

倭国大乱後の弥生時代の終末期にかけて規模の大きい6つの四隅突出型墳丘墓を含めた墳墓群が西谷の地に築造されました(文献)。これらは古代出雲の王族の墓と考えられています。当地は出雲平野を一望できる高台にあり、河川が氾濫しても水害を避けることができます。これは低地に存在して洪水被害を受けやすい青木遺跡とは明確に異なる点です。王族が永眠するには格好の場所と考えられたと推察します。

図-10 西谷墳墓群

なお、男王と女王の棺が発見された西谷3号墓で男王の棺は祖霊信仰に通じる猪目洞窟の方位を向いています。西谷2号墓の長軸の方位もこの方位に正確に一致します。このことから男王は、青木遺跡に葬られた首長と同一の血筋で継承されている王である可能性が高いと考えられます。

一方、女王は男王の妃ではなく、邪馬台国の卑弥呼のように、男王に共立されたシャーマンであった可能性があります。棺は十六島(うっぷるい)岬の突端に存在する奇岩の経島(きょうじま)の方位を向いています。ここで経島(ふみしま)と経島(きょうじま)は別の島です。

以上の事実からアブダクションすれば、「倭国大乱後に古代出雲の稲作コミュニティの首長は王となり、信仰対象を祖霊から太陽に変えて、本拠地の矢野遺跡から夏至日没の方位にある経島を磐境とする祭祀を行った。出雲平野における太陽神への参拝所を後の天日隅宮(出雲大社)の場所に造り、王族の墓所もこの神聖なライン上に位置する高台に移動させた」という一定の蓋然性をもつ仮説設定が可能かと思います。

図-11 古代出雲の遺跡の空間分布

青銅器による祭祀の時代には、夏至の日没と重ねて死の世界へのアクセスポイント(磐境)である猪目洞窟を畏怖の対象としていたのに対して、倭国大乱後には太陽そのものを畏敬の対象としたと推察されます。この場合に、後の天日隅宮(出雲大社)は、出雲平野に住んで稲作を生業とする人々がアクセス困難な位置に存在する経島を訪問することなく、太陽神に参拝できる場所であった可能性が高いと考えます。西方に位置する海浜の稲佐浜は太陽の簡易遥拝所です。

ちなみに、弥生時代後期後半の四隅突出型墳丘墓である中野美保1号墓は荒神谷遺跡と正確に同緯度、同じく弥生時代後期後葉の四隅突出型墳丘墓である西谷墳墓群1号墓は加茂岩倉遺跡と正確に同緯度です。出雲の王は100~200年前に埋納された青銅器の在処を正確に把握していた可能性が高いと考えられます。

また、偶然かと思いますが、西谷墳墓群から見て冬至日没の方位には、縄文・弥生期の遺跡が帯状に分布します。年間を通して出雲平野の日没に臨むことができる西谷の地は、出雲平野を支配する王族にとって永眠するに最も相応しいサイトと考えられるのです。

弥生時代が終わって大和政権が全国を制覇した古墳時代になると四隅突出型墳丘墓の新たな造営は突然止まります。大和朝廷は、出雲王の無抵抗の降伏(国譲り)の対価として太陽神の参拝所に出雲族の首長の居場所である天日隅宮(出雲大社)を造ったと考えることもできます。そして、出雲の王族による「太陽」に対する信仰は、その後、覇者である大和朝廷が創造した天照大神という「太陽神」に対する信仰に強制改宗させられたと考えられます。これについては、後編で論じたいと思います。