マルキストは共産主義者ではない
日本のサヨクが調子に乗って過激になる程、日本人は目覚めて、「サヨクに日本を任せるとロクなことにならない」と、本質に気づき、正常化する。
現在の日本において、野党支持者の多くはマルキストなどと言われても、ほとんどの人が、「それは共産主義者のことか?」という反応になるだろう。
確かにマルクスとエンゲルスが妄想した社会主義国家は、共産主義の実現した、格差の無い労働者が生き生きと働く理想的な国家だったかもしれない。
欧州の悲観的な未来を描いたジョージ・オーウェルの『1984』を取り上げ、「このまま自民党政権が続くということは、小説『1984』のような日本になる!」と、真面目に論じた憲法学者もいたように記憶している。
元々、ジョージ・オーウェルは、人類の愚かしい究極の行為である戦争を通じて、人類が得たのは、全体主義、専制主義を理想郷とする未来だったのだが、実はそれ自体が個人の尊厳を否定する最も愚かなイデオロギーだったと匂わせる中身だったと記憶している。
つまり、オーウェルはリベラリスト(現実主義者)で理想主義への反論として『1984』を書いたのではないか?と思えてならないし、だからこそ、「こんな世界にしていいの?」と言う内容の解説文の削除要請を拒んだのではないか?と感じる。
つまり、『1984』の前半部分を取り上げ、自民党政治が続くと、こんな社会になるぞ、などとしたり顔で野党議員とその支持者が言うことは、彼ら自身の愚かさを具現した批判だと受け止めてもいいだろう。
日本で自民党政治を批判する人の多くが、自民党は保守思想が強く右翼的であり戦前、戦中の軍国主義の成れの果てだと言う。つまり、自民党政治が続けば、日本は再び軍国主義に回帰し、戦争の渦中に巻き込まれるだろうと、尤もらしく言うのである。この認識は、あまりに荒唐無稽な発想なのだが、もっと問題なのは彼らが本気でそれを信じているという原理主義者然とした、その姿勢にあることだと思う。
そんな野党議員とその支持者は、繰り返し、社会的弱者、少数者の類を法的に保護すべきだと言う。社会的なマイノリティはLGBTだったり、障がい者だったり、在日外国人だったりする。憲法13条を取り上げるまでもなく、個々人の権利主張を保護すべきだと言うのだ。
もっとも、このお説を主張するなら、平成15年の個人情報保護法関連の衆議院における『基本的人権の保障に関する調査小委員会』の中身を反芻すべきではないか?と提言したい。
ここには「個人の権利とは何か?」が憲法学者の論説とともに議論されていて、憲法や法律に疎い筆者でも分かりやすい内容になっている。A4で150ページと長文だが、ご興味のある方は是非、ご一読されることを薦める。
この中に取り上げられている基本的人権とは何か?の解説は、先ごろ、国会で決定した「プロバイダー責任制限法」にも通じる中身で、この法改正の基礎的な知識を補填する意味でも、参考になる記録だと思う。
ネット上の誹謗中傷は迅速削除、SNS大手に義務付けへ…法改正で削除基準の透明化も
憲法13条、14条における人権については、特に野党支持者の多くが執拗に、声高に叫ぶ傾向があり、曰く、「マイノリティは社会的には弱者であり、差別対象でもあるから、法的な保護を貰うのは当然だ。それを一生懸命にやってくれているのが野党議員だから、自分たちは野党を支持する」と、昭和の時代から続く弱者救済の綺麗事を並べてきた左派政党の論調に同調する。
社会的に少数者と言われる人々は、実は日本国憲法では、かなりちゃんと人権が保護されている。多分、野党支持者の多くは、日本国憲法を読んでないか、日本国憲法の中身を解説している学者の論考を読んでいないだろうと考えられる。つまり、「マイノリティの人たちを守りますよ」という野党議員の甘言に乗せられ、自分たちの不平不満を人権問題に置き換えているようにさえ思える。
確かに、学校や社会で差別されてきたという認識を持つマイノリティの思いに寄り添ってくれる野党を心強く感じているのだろうし、そう思う気持ちは理解できる。
それなら野党議員は、日本国憲法にはっきりとその点を明記されていることを指摘して、「日本は日本国憲法が制定されて以後、個人の人権、個人の権利を保護してきた国なんですよ」と説明しなければいけない。
にも関わらず、野党議員はマイノリティに対して、「そうだね、あなたたちは学校や社会で阻害され、差別され、可哀想だね」と、可哀想な人に仕立て上げており、それはまた、今の欧米社会で大問題を引き起こしている不法移民問題に通じる問題と広義で同じ意味だ。
日本国憲法に照らせば、LGBTだろうと在日外国人だろうと、日本国に住まう人は全て、個人の人権、個人の権利は強力に担保されている。最高法規にそう、書いてあり、関係法令は日本国憲法に則って整備され、時に改正されている。
このアンバランスな認識が、マイノリティと言われる人々の認識に誤った日本観を刷り込んでいるようにも思う。これは実は、とても危険なことではないだろうか?そして野党議員やその支持者が知らず知らず陥っているのが、マルクスがでっち上げた共産主義なる妄想社会が理想社会のあるべき姿だと考える、誤った理想主義ではないだろうか?
サヨクの憂鬱
マスコミでは盛んに、支持政党が無い有権者が増えてきていて、あたかもこれが一大事であるかのような報じ方をしている。
一方で同様に、安倍晋三批判を繰り返してきた旧民主党、社民党、日本共産党、れいわ新選組の支持率を観てみれば良い。この数字が低下していることでマウントを取りたいのではなく、野党の支持率が低下してもゼロにはならないと言うことは、この状況にあっても野党支持者という框(かまち)に取り残されている人たちは、野党の本質を見抜けず、自分たちが見たい野党の姿というフィルターで野党を見ていて、それは言葉を変えればより原理主義化しているということなのだ。
これほど野党への信頼が落ち込んでもなお、野党を支持し続けるのは、自分たちが信じたい野党の姿を理想とし、他が見えなくなっているとも言える。
そして、これら頑強な野党支持者の概念の根底にあるのが、縷々、書いてきた社会的マイノリティの保護や人権への重視だ。マイノリティの生の声を届けたいという、好意的解釈をする一方、マイノリティ保護を支持する人々の意識にあるのは、平和とか人権とかの言葉尻「だけ」に囚われてないか?実は、日本国憲法に書かれている人権や権利への無理解はないのか?と言う疑問はないのだろうか?
繰り返すが日本国はその憲法において世界にも類の無い個人の人権の保障を行っている。加えて、仮にマイノリティの訴えや欧米の潮流を鵜呑みにして、過剰なマイノリティ保護をするならば、それは結果的に逆差別を生み出す素地になっていないか?という疑問をなん度も、あちこちで書いてきた。
だからこそ資本家と労働者は敵同士、と言う価値観を創造したマルクスに常に回帰する必要がある。何せ、今の日本のサヨクの大元締めなのだ。
マルクスは他人の金をアテにして、頭の体操を繰り替えしてきた結果、資本論を書くに至った。エンゲルスは、マルクスが唱えた「資本家と労働者の対立的考察の果てに労働者が富の源泉であり、国家がその労働者の生み出した富を再分配すれば、きっと差別や格差の無い平等な社会が実現するだろう」という妄想と、現実のマルクスは他人の財布をアテにしながら、あちこちの女に手を出し続けたロクデナシだったことの乖離をどう見ていたかは不明だが、少なくとも、当時のプロイセンにあった労働者の抑圧された社会を改革する一案としてのマルキシズムを受け入れることで、マルクスの存在に妥協していたのだろう。
労働者階級(プロレタリアート)の蜂起を訴えたマルクス自身が、資本家におんぶにだっこだったのは厳然たる事実なのだが、だからこそマルクスは改革思想、革命思想だと後に語られる新しい「資本家」像の具現としての『資本論』を提起したと、朧げな感想を抱く。
まあそれもこれも、マルクスの本音の部分はマルクスと同時代に生きた人々の思いを憶測するしかないのだが。
ともあれ、マルクスはこの世の中の経済を資本家と労働者とに区分けすることで、資本とは何か?の問いに対する答えを導き出した。それが、労働者の労働力が物の価値を決めると言う労働価値説へと昇華する。マルクスの著した『経済学批判』の中で、マルクスはマルクスによるマルキシズムを展開する。
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した関係、すなわち、彼らの物質的生産力の一定の発展段階に対応する生産関係を結ぶ。この生産関係の総体が、その社会の現実の土台をなす経済的構造を構成する。…人間の意識がその存在を規定するのではなく、反対に人間の社会的存在がその意識を規定する」
ようは、労働者は自分の衣食住を賄うだけの労働力を資本家に提供すればいいのであって、しかもその労働はどのような職業についていても等価でなければならない。なんとなれば、労働者の価値は等価だからだ。と言う論を打ち出す。
このマルクスの言い分を聞いてると、まるでマルクス自身がジョージ・オーウェルの『1984』を具現したような社会の実現を願っていたかのように聞こえるのは私だけだろうか?
『資本論』は未完のまま終えている。マルクス自身が行なってきたのは、「資本家が社会の支配者となってることは、おかしい。労働者だって人間だ」と言う問いと批判だった。これは世の中の99.9%の人が賛同できる。何故なら、99.9%の人々は労働者だからだ。特に学校を出て世の中で仕事をするようになった若者には、非常に耳障りが良い。マルクスは資本主義社会批判を繰り返してきたのだから、当然と言えば当然だ。労働者を「商品」ではなく労働と言う価値を与えたことが、マルクスの考え方の根幹になっている。
これが今の日本のリベラルを自称する人々の考え方の根底にある。つまり、すべての権力者は資本家側であり、労働者から搾取することで資本家たり得ているから、労働者である民衆の敵でもあると言う論の立て方だ。だから政府批判をする。
これは戦後の左翼政党の影響が大いに効いている。戦後の社会党と共産党の影響だ。マスコミも同じ考え方に立脚する。マスコミの場合は、大本営発表の反省とマスコミによって日本社会を左翼化そうとするマルキシズムの影響を多分に受けている。教育界など典型的で、未だに日本国国歌の『君が代』に反対する教員がいるのが、まさに国家を権力者側と見ているから、抵抗するつもりの行動だ。
余談だが、サヨクはよく「総括」と「自己批判」と言う言葉を持ち出す。
あれは、堂々巡りの話し合いと言う意味だ。ようは自己批判と互いの批判を、お互いが納得するまで徹底的に話し合い答えを出すと言う考え方で、今の野党議員がよく話し合いが大事だとか、裁判所の決定に対して、「俺たちは納得してない。もっと話し合わなければいけない」と言うが、それが「総括」と「自己批判」というやつだ。
マルクスはいざとなったら暴力も辞さないと言う結構ヤバい考え方だが、今のサヨクは1ミリほど進化して、互いが納得するまで徹底的に話し合うと言う解決策を打ち出した。しかし、それも限界があるのだから裁判所に決めて貰えばいいのだが、沖縄のサヨクの人たちはそれでも納得できないで、「まだ話し合いは終わってない」と、言い続けている。
■
以後、
・サヨクの理想と現実
続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。