ダボス会議で西側諸国の「社会主義化」を警告【ミレイ大統領演説全文】

「ダボス会議」(世界経済フォーラムWEFの年次総会)は、スイスのダボスで例年この時期に開かれており、今年は1月15日から19日まで開催されました。

120の国と地域から合計2800人ほどの政財界のリーダーたち、60人以上の各国の首脳らも訪れるエスタブリッシュメントの大会です。日本の政治家は河野太郎氏が参加されました。

ダボス会議 15日から 世界の政財界のリーダーら2800人余参加へ

ダボス会議 15日から 世界の政財界のリーダーら2800人余参加へ | NHK
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今回は、このダボス会議でのアルゼンチンの新大統領ハビエル・ミレイの演説全文を日本語訳で紹介します。(太字と※は筆者)

ミレイの演説は、ダボス会議が提言する政策や思想と正反対の内容ですが、演説動画の再生数でダントツの1位となっているそうです。

拡大図。view数もlike数もダントツで多いです。

※演説動画に日本語の字幕テロップをつけたのはこちらです↓(1月21日追記)

ハビエル・ミレイ大統領の世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)での演説

私は今日、西側諸国が危機に瀕していることをお伝えするためにここに来ました。

西側の価値観を守るべき人々が、社会主義、ひいては貧困につながる世界観に取り込まれてしまっています。

残念なことに、ここ数十年、他人を助けたいという崇高な意図と、特権的なカーストに属したいという欲望にかられ、西側世界の主要な指導者たちは、自由というモデルを放棄し、集産主義のさまざまなバージョンに走りました。

私はここで、集産主義的な試みは、世界の市民を苦しめている問題の解決策では決してなく、それどころかその原因であることをお伝えしたいのです。

私たちアルゼンチン人ほど、この2つの問題を証言できる人はいません。

私たちアルゼンチンは、1860年に自由のモデルを採用し、35年で世界をリードする大国になりました。

一方、私たちが集産主義を受け入れたこの100年間で、アルゼンチン人は世界140位に転落するほど組織的に貧困化しました。

しかし、この議論を始める前に、なぜ自由市場資本主義が世界の貧困をなくすための実行可能なシステムだというだけでなく、そうすることが道徳的に望ましいと思われる唯一のシステムなのかを裏付けるデータを検証することが重要でしょう。

経済発展の歴史を見てみると、0年から1800年頃までの間、世界の一人当たりGDPはほぼ一定でした。

人類の歴史を通して経済成長の推移をグラフにすると、ホッケーの棒の形をしたグラフになり、基準期間を通して一定の指数関数になります。

人類の一人当たりGDPは90%の期間において一定であり、19世紀以降は指数関数的な成長が始まりました。

この停滞の歴史の唯一の例外は、15世紀末のアメリカ大陸の発見です。

しかし、この例外を除けば、0年から1800年までの全期間を通じて、世界の一人当たりGDPは停滞を続けていました。

資本主義は経済システムとして採用された瞬間から爆発的な富を生み出しただけでなく、データを見れば、全期間を通じて成長が加速していることがわかります。

0年から1800年までの間、一人当たりGDP成長率は年率0.02%前後で安定しており、事実上ゼロに等しかったのです。

19世紀以降、産業革命によって成長率は0.66%まで上昇しました。このペースでは、一人当たりGDPを2倍にするには107年かかります。

1900年から1950年までの期間では、成長率は年率1.66%に加速します。一人当たりGDPを2倍にするのに必要な年数は、もはや107年ではなく、66年です。

1950年から2000年までの期間では、成長率は年率2.1%であり、わずか33年で世界の一人当たりGDPを2倍にできたことになります。この傾向は止まるどころか、現在も続いています。

2000年から2023年までの期間では、成長率は年率3%に加速し、わずか23年で世界の一人当たりGDPを2倍にできたことになります。

1800年から現在までの一人当たりGDPを見ると、産業革命後、世界の一人当たりGDPは15倍以上に増加し、爆発的な富を生み出し、世界人口の90%が貧困から抜け出しました。

忘れてはならないのは、1800年には世界人口の95%近くが貧困にあえいでいたのに対し、パンデミック前の2020年には5%にまで減少していたことです。

結論は明白です。

問題の原因であるどころか、経済システムとしての自由市場資本主義こそが、世界中の飢餓、貧困、困窮をなくす唯一の手段なのです。

経験的な証拠は議論の余地がありません。

したがって、自由市場の資本主義の方が生産性の面で優れていることは間違いないため、左翼の教義は、資本主義を「不公正である」として道徳的な問題を攻撃してきました。

彼らは、資本主義は個人主義的だから悪く、集産主義は利他的で「社会正義」を目指すものだから良いというのです。

この概念は、ここ10年の間に第一世界(先進資本主義国)で流行となりましたが、私の国(アルゼンチン)では80年以上にわたって政治的言説の中に常にありました。

問題は、社会正義は公正でないだけでなく、一般的な福祉にも貢献しないということです。

それどころか、暴力的であるがゆえに、本質的に不正義なのです。

国家は税金によって賄われており、税金は強制的に徴収されるからです。

それとも、税金を払わない選択肢もあるとでも言うのでしょうか?

税金が増えれば自由は減ります。

つまり、国家は強制力によって財政を賄い、税負担が高ければ高いほど、強制は大きくなり自由は少なくなるのです。

社会正義を推進する人々は、経済全体がさまざまに分配できるケーキだ、という考えから出発します。

しかし、そのケーキは与えられるものではなく、カーズナー(※イスラエル・M・カーズナー。オーストリア学派の経済学者)の言う「発見の過程」で生み出される富なのです。

良い品質の製品を魅力的な価格で生産すれば、その企業は業績を上げ、さらに多くの製品を生産するでしょう。

つまり市場とは、資本家が正しい方向を見つけながら進んでいく発見のプロセスなのです。

しかし、国家が資本家の成功に対して罰を与え、この発見のプロセスを阻害すれば、資本家のインセンティブを破壊することになります。

その結果、資本家の生産量は減り、「ケーキ」は小さくなり、社会全体に不利益をもたらします。

集産主義は、こうした発見のプロセスを阻害し、発見されたものの利用を妨げます。それによって企業家の手を縛り、より良い商品を生産し、より良いサービスをより良い価格で提供することを不可能にしてしまいます。

世界人口の90%を極度の貧困から脱却させ、そのスピードもますます速くなっているだけでなく、公正で道徳的にも優れている経済システム。その自由市場資本主義を、学界・国際機関・政治・経済理論が悪者扱いするのはなぜなのでしょうか。

自由市場資本主義のおかげで、世界は今日最高の状態にあります。人類の歴史上、今ほど繁栄した時代はありません。

今日の世界は、歴史上のどの時代よりも自由で、豊かで、平和で、繁栄しています。

これはすべての国に言えることですが、特に自由度が高く、経済的自由や個人の財産権を尊重している国に当てはまります。

自由度の高い国々は抑圧された国々に比べて8倍豊かです。
自由度の高い国々の下位10%の人々は、抑圧された国々の90%の人々よりも良い暮らしをしており、標準的なフォーマットでは25倍、極端なフォーマットでは50倍も貧困層が少なくなっているのです。

自由主義国の国民は、抑圧された国の国民より25%長寿です。

私たちが何を守ろうとしているのかを理解するためには、リバタリアニズムとは何かを定義することが重要です。

それを定義するために、わが国最大の自由推進者であるアルベルト・ベネガス・リンチの言葉を取り上げようと思います。

「リバタリアニズムとは、個人の生命、自由、財産を擁護するために、不侵略の原則に基づき、他者の人生の活動を全面的に尊重することである。
その基本的な制度は、私有財産、国家介入のない市場、自由競争、分業、社会的協力である。より良い品質、より良い価格の商品で隣人に奉仕することによってのみ、人は成功することができる」。

言い換えれば、資本家は、他人の富を横領するどころか、一般の福祉に貢献する社会的恩人です。

つまり、成功した企業家は英雄なのです。

これが、私たちが未来のアルゼンチンに提案するモデルです。

生命、自由、財産の擁護というリバタリアニズムの基本原則に基づいたモデルです。

自由市場の資本主義と競争の法則が、世界の貧困をなくすという驚異的な成果を達成し、人類史上最高の時を迎えているのに、なぜ私は西側諸国が危機に瀕していると言うのでしょうか?

その理由は、自由市場・私有財産・その他のリバタリアニズムの制度という価値を守るべき国々で、政治・経済界の有力者たちが、ある者は理論的枠組みの誤りから、またある者は権力への野心から、リバタリアニズムの基盤を損ない、社会主義への扉を開き、私たちを貧困、悲惨、停滞へと追いやる可能性があるからです。

社会主義は常に、そしてどこでも、試みられたすべての国で失敗した貧困化現象であることを決して忘れてはなりません。

社会主義は、経済的に失敗しました。社会的に失敗しました。文化的にも失敗しました。そして1億人以上の人間を殺したのです。

今日の西側諸国にとって本質的な問題は、壁が崩壊し、圧倒的な経験的証拠が示された後でもなお、貧困化する社会主義を目指し続ける人々だけでなく、誤った理論的枠組みのもとで、歴史上最大の富と繁栄の拡大をもたらしたシステムの土台を台無しにする指導者、思想家、学者たちにも立ち向かわなければならないということです。

私が言う理論的枠組みとは、新古典派経済理論のことです。

新古典派経済理論は、知らず知らずのうちに、国家の干渉や社会主義、社会の劣化に機能する道具を設計してしまいます。

新古典派の問題は、彼らが惚れ込んだモデルが現実に即していないため、モデルの前提を修正する代わりに、その誤りを市場の失敗のせいにすることです。

市場の失敗を口実に規制が導入されますが、それは価格システムに歪みを生じさせ、経済計算ひいては貯蓄、投資、成長を阻害します。

この問題は本質的に、リバタリアンであるはずの経済学者でさえ、市場とは何かを理解していないという事実にあります。もし理解していれば、市場の失敗など存在し得ないことがすぐにわかるはずだからです。

市場とは、グラフ上の需要と供給の曲線ではありません。市場とは、人々が自発的に交換する社会的協力のメカニズムです。

したがって、その定義からすれば、市場の失敗とは矛盾しているのです。

市場の失敗など存在しないのです。

取引が自発的なものであるならば、市場の失敗が起こりうる唯一の状況は、強制がある場合だけです。

そして、全面的に強制する能力を持つのは国家だけであり、国家は暴力を独占しています。

従って、市場の失敗があると考える人がいたら、その中間に国家が介入しているかどうかをチェックすることをお勧めします。そして、もし中間部分に国家の介入がないとわかったら、それは間違っているので、分析をやり直すことを勧めます。

市場の失敗は存在しないのです。

新古典派が言う市場の失敗の例として、経済の集中構造が挙げられます。

しかし、1800年から今日に至るまでの経済成長を説明するためには、経済が集中する構造と対をなす、規模の収穫逓増の関数がなければ説明がつきません。

見てください。1800年以降、人口が8、9倍以上に増加し、一人当たりの生産高は15倍以上になりました。極度の貧困が95%から5%になったのです。

しかし、このような収穫逓増の存在は、集中的な構造、いわゆる独占を意味します。

新古典派の理論家たちにとって、これほど多くの福祉を生み出してきたものが、どうして市場の失敗なのでしょうか? 新古典派経済学者は常識を無視します。モデルが失敗したら、現実に腹を立てるのではなく、モデルに腹を立て、モデルを変えなければなりません。

新古典派モデルが直面するジレンマがあります。彼らは市場の失敗と考えるものを攻撃することで市場の機能を完全なものにしたいと主張するのですが、そうすることで社会主義への扉を開くだけでなく、経済成長を損なうのです。

例えば、独占企業を規制し、その利益を破壊し、増加するリターンを破壊することは、自動的に経済成長を破壊することになります。
言い換えれば、新古典派は、市場とは何かを知らなかったり失敗したモデルに惚れ込んでいたりするので、市場の失敗とされるものを是正しようとするたびに、社会主義への扉を開き人々を貧困に陥れることになるのです。

しかし、国家介入は有害であるという理論的実証と、それが失敗したという経験的証拠を前にしても、集産主義者が提案する解決策は、自由を増やすことではなく規制を増やすことなのです。

私たち全員が貧しくなり、私たち全員の生活が、高級オフィスに座る官僚に依存するようになるまで、規制による下降スパイラルが発生するのです。

集産主義モデルの大失敗と、自由主義世界の紛れもない発展を受け、社会主義者たちはアジェンダの変更を余儀なくされました。

彼らは経済体制に基づく階級闘争を追求することをやめて、その代わりに地域社会や経済成長にとって有害な他の社会的対立に置き換えました。

これらの新しい戦いの最初のものは、男女間のばかげた不自然な戦いでした。

リバタリアニズムはすでに男女平等を確立していました。私たちの信条の礎石は、すべての人は平等に創造され、創造主から与えられた同じ不可侵の権利、中でも生命、自由、財産を持っていると言っています。

この急進的フェミニズムのアジェンダがもたらしたものは、経済プロセスを阻害し、社会に何の貢献もしない官僚に仕事を与え、それが女性省であれ、このアジェンダを推進するための国際機関であれ、国家の介入を増やすことだけなのです。

社会主義者が提起するもうひとつの対立は、人間対自然です。

彼らは、人間は地球を傷つけ、地球はどんな犠牲を払っても守らなければならないと主張し、人口抑制メカニズムや中絶という血なまぐさいアジェンダまで提唱します。

残念なことに、こうした有害な考え方は私たちの社会に浸透しています。

ネオ・マルクス主義者たちは、西側諸国の常識を掌握することに成功しました。彼らは、メディア、文化、大学、そして国際機関を利用することでこれを達成したのです。その中でも、国際機関はおそらく最も深刻です。多国間組織を構成する国々の政治的・経済的意思決定に、多大な影響力を持つ機関だからです。

幸いなことに、あえて声を上げる者が増えています。

というのも、私たちがこのような考えと正面から戦わなければ、起こりうる唯一の運命は、国家権力がますます増大し、規制が強化され、社会主義が進み、貧困が増え、自由がなくなり、その結果、生活水準が低下するということです。

欧米は残念ながら、すでにこの道を歩み始めています。

欧米が社会主義に転じたと言うのは、多くの人にとって滑稽に聞こえるかもしれないことは承知しています。

しかし「社会主義とは国家が生産手段を所有する経済体制である」という伝統的な経済学的な定義に固執することは馬鹿げています。この定義は、現在の状況に合わせて更新されるべきなのです。

今日、国家は生産手段を直接管理しなくても、個人の生活のあらゆる側面を管理することができます。通貨発行、国債の発行、補助金、金利統制、価格統制、そして「市場の失敗」とされるものを是正するための規制といった手段によって、国家は何百万もの人間の運命をコントロールすることができるのです。

こうして私たちは、名前や形を変えながらも、ほとんどの西側諸国で一般的に受け入れられている政治的提案のかなりの部分が、集産主義の変種であるという状況に至ったのです。

彼らが公然と共産主義者であると主張しようと、社会主義者であろうと、社会民主主義者であろうと、キリスト教民主主義者であろうと、ケインジアンであろうと、ネオ・ケインジアンであろうと、進歩主義者であろうと、ポピュリストであろうと、ナショナリストであろうと、グローバリストであろうと、本質的な違いはありません。

彼らは皆、国家が個人の生活のあらゆる側面を指揮すべきだと主張しています。

彼らは皆、人類をその歴史の中で最も目覚ましい進歩へと導いたモデルとは正反対のモデルを擁護しているのです。

私たちは今日、西側諸国に繁栄の道への回帰を呼びかけるためにここに来ました。

経済的自由、制限された政府、私有財産の無制限の尊重は、経済成長に不可欠な要素です。

集産主義がもたらす貧困化という現象は、幻想ではありません。運命論でもありません。私たちアルゼンチン人がよく知っている現実なのです。

なぜなら、私たちはすでにそれを経験しているからです。私たちはすでにそれを経験しているのです。というのも、前にも述べたように、私たちを豊かにした自由のモデルを放棄することを決めて以来、私たちは日々貧しくなる下降スパイラルに陥っているからです。

私たちはすでにそれを経験しています。

そして私たちは、自由というモデルで豊かになった西側諸国が、このまま「隷従の道」を歩み続ければどうなるかを警告するためにここにいます。

アルゼンチンのケースは、どんなに豊かでも、どんなに天然資源があっても、どんなに熟練した国民がいても、どんなに教育を受けた国民がいても、中央銀行の金庫にどれだけの金塊があっても関係ない、ということを実証しています。

市場の自由な機能、自由な競争、自由な価格体系を妨げるような措置が採られ、貿易が妨げられ、私有財産が侵害されれば、行き着く先は貧困しかありません。

最後に、この場にいるすべての企業家たち、そして地球上のあらゆる場所から私たちを見ている人々にメッセージを残したいと思います。

政治カーストや国家に寄生する寄生虫に脅かされてはなりません。

権力を永続させ、特権を維持することだけを望む政治家階級に屈服してはなりません。

あなたたちは社会の恩人です。英雄なのです。あなた方は、私たちがこれまでに経験したことのない繁栄の時代を創り出したのです。

あなたの野心が不道徳だとは誰にも言わせません。

あなたがお金を稼ぐなら、それはあなたがより良い製品をより良い価格で提供し、それによって一般的な福祉に貢献するからです。

国家の進出に屈してはなりません。国家は解決策ではありません。国家は問題そのものなのです。

あなた方はこの物語の真の主人公であり、今日からアルゼンチン共和国という揺るぎない味方がいることを知ってください。

ありがとうございました。自由万歳!


編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年1月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。