広島県東部の無人島・大久野島に滞在しています。
前回はかわいいウサギに惚れてしまった浮かれ気分満載の記事を書いたわけですが、実は大久野島に渡った目的はそれだけではありません。この島がかつて経験した悲しい歴史をこの目で見たいという思いもあったからでした。
こちらは大久野島の地図。休暇村やフェリー乗り場などと並んで書かれているのは数々の砲台跡と毒ガス資料館。この島の歴史は戦争抜きでは語れません。
うさぎたちがたくさんいる浜辺とお別れして島の中央部目指して昇っていきます。展望台があるため遊歩道が整備されていますがそこそこの山道で冬に歩いても汗ばんできます。
島の高台まで登ってみれば青い瀬戸内海と対岸の本土が間近に望めます。今であればいい風景、といったところで終わるのですが明治時代の日本ではそんな悠長なことは言っていられませんでした。
見晴らしのいいこの島は芸予要塞と呼ばれる重要な軍事拠点とされました。大久野島には広島、呉という軍にとっての重要拠点があるこの地域に外国船が入ってこないように見張り、攻撃を行えるような拠点が置かれたのです。
こちらは中部砲台跡。明治34年に竣功した芸予要塞の中枢部です。このすぐ後に開戦した日露戦争中、バルチック艦隊攻撃で使われた28cm榴弾砲を配備する国防上重要な拠点とされてきました。ただ実際に戦争に使われることはないまま大正時代になると別の拠点が重要視され芸予要塞は廃止されます。
ただこれで大久野島と戦争との関係が終わりを告げたわけではありません。
昭和時代に入るとこの島には大日本帝国陸軍の毒ガス工場が建設され、島民はすべて追い出されることになりました。それでも漁業以外に主要な産業のなかったこの地域に官営工場が建設されたことを地域住民は喜んだといいます。
こちらの毒ガス資料館では毒ガス工場が建設された島の歴史と、その被害の実態、防毒マスクなどの展示がされています。毒ガスを製造する過程で多くの人が命を奪われ、皮膚病や気管支の病など後遺症に悩まされることになりました。
資料館周辺には毒ガスに関連する施設が遺されています。こちらはびらん性ガス・イペリットと呼ばれる毒ガスの貯蔵庫でした。鉛のタンクに詰められた毒ガスが貯蔵されていたといいます。さきほどの中部砲台跡も毒ガスの原料保管庫に転用されました。昭和の戦時下における大久野島は「毒ガスの島」として国の最重要機密事項として秘匿され地図から消されるに至ったのです。
戦後、国民は豊かになりこの地にも休暇村が設立されました。しかしこの休暇村建設中にも作業員が残った毒ガスによる被害を被ったり、土からヒ素が検出されるなどといった問題が発覚しました。
ヒ素の検出はもうなくなりましたがそれまで使っていた井戸水は使わず、休暇村の水はすべて島外から運ばれてきています。本土からパイプをひいて水をひこうという計画もありますが、日本軍が証拠隠滅のため海中投棄した毒ガス兵器が見つかったため計画が中断するなど現代においてもその影響は残っています。
ちなみにウサギも毒ガスの被検者として利用されていたといいます。毒に汚されたウサギはすべて殺処分されたため、今島にいるウサギは全く無関係ですが、ウサギたちも悲しい歴史の被害者となっていました。
かわいいウサギや美しい瀬戸の海を持つ大久野島はその一方で暗い戦争の歴史を持つ悲劇の島でもありました。ウサギと戯れつつも日本がかつて犯した過ちを二度と繰り返さないよう、歴史にも目を向けることの大切さを感じました。
編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2024年1月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。