自民党の派閥解体と今後の政治についての一考察

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乾坤一擲の大勝負

1月19日(金)15時頃、たまたま某省の大臣で大臣と向き合っていた私は、二階派の解散と、その時情報として入ってきた同日夜の安倍派の集まりでの同派解散の知らせに接し、不思議な感情に包まれていた。派閥が次々に解散する。凄く晴れやかなような、同時に、天災が襲ってきた時のショックのような、何とも言えない、しかし心を揺り動かすインパクトの巨大さだけは確かな、そんな得も言われぬ感情だった。

前日の夜、岸田総理が電撃的に自派(厳密には直前に離脱済み)の解散に言及して流れを作ったわけだが、特に岸田政権を支えている麻生太郎氏が、麻生派はキックバックによる裏金づくりをしていないのに、岸田総理が事前に相談もなくこうした流れを作って激怒しているとか、その手打ちのための会合がセットされた等々のサイド・インフォメーションに接しつつ、とにかく強く感じたのは、「岸田総理には、こんな決断力があるんだ。やるなぁ」というものであった。

まあ、この手しかない、というところではあった。が、どれだけの人が事前に、この波状的な自民党の派閥の解散を想像していただろうか。まさに乾坤一擲の手であった。元々はパーティ券収入のキックバックによる裏金づくりやその規模、そしてその使途などが今回の問題の核心であったが、焦点が派閥の解散になり、一気に吹き飛んだ感がある。

個人的には、参院で関連法案が否決されてしまった郵政民営化を実現するために、法案が可決された衆議院を解散して総選挙に持ち込んだいわゆる小泉劇場を思い出した。争点ずらし、と言えば聞こえは悪いが、当該論点に関して、その想定規模を超えるより大きな渦を作ってしまうことで、却って事態を好転させてしまう手法だ。

実際、各種調査によれば、内閣支持率は下げ止まったり、少し反転したりしている。数字だけ見ると国民の多くも「岸田さん、意外にやるなあ」と総理の決断力とリーダーシップを感じたことであろう。

極端な支持率低迷時を経験したある総理秘書官経験者と昨年末にお会いした際、「朝比奈ちゃん、総理ってのは、支持率が物凄く高い時と、逆に物凄く低い時に思い切ったことが出来る。中途半端な時が一番動きにくい。」と喝破されていた。なるほどと感じ入ったものだが、今回の岸田総理の決断は、まさにその好事例である。

派閥とは何だったのか

さて、その多くが解散して改めて考えてみるに、派閥とは何だったのであろうか。乱暴に整理すると、自民党という大集団における、「3つのとりまとめ機能を主軸とした集まり」が派閥であったように思われる。

その3つとは、①カネのとりまとめ(いわゆる餅代、氷代のように盆暮れに派閥の構成員に配られるお金や、その他、今回の派閥のパーティ券収入を原資としたお金などの調達と配布)、②人事関係のとりまとめ(人材育成から、派閥推薦という形での党内や政府での任用など)、そして、③票のとりまとめ(総裁選などに際して、派閥として団結して特定の総裁候補等に投票)、である。

特に力のある政治家は、一般に①のカネを集めるのがうまく、そのことによって多くの人が集まって来るため②の人事関係のとりまとめが必要になり、そうした中で、③の票を取りまとめて時に自分を総裁候補として推してもらったり、或いは他派閥の候補者を推すことで恩を売って人事で優遇してもらったり、ということを主導してきた。

かつては、派閥とは、そうしたいわゆる親分肌の政治家を中心とした集まりであったが、最近はどうであろうか。二階氏や麻生氏や森氏にそうした“昭和の香り”を見出すことが出来るが、安倍氏亡きあとの安倍派や岸田派、茂木派などは、このような親分肌政治家モデルで回っているというよりは、かなりシステム化・サラリーマン化されていた感じも強い。派閥も世代を経て、良くも悪くも、大企業的になってきていたと言える。

自民党の今後:個人商店、商店街組合、そしてコンビニ(チェーン店)へ

そんな中で、大企業的・システマチックに古い時代の名残のような裏金作りが常態化していたという信じられない事態の表面化が今回の騒動の発端であるが、自民党は、そして派閥は、これから一体どうなって行くのであろうか。

まず、派閥はなくならないと思う。より正確に言えば、上記の①~③のとりまとめ機能のうち、①や②、すなわち、カネや人事関連は、派閥ではなく政党(自民党)そのものがシステマチックに、集めたり再配分したり任用したりして行くことになると思われるが、③の機能は残るであろう。

改めて論ずるまでもないが、ある程度の人間の集団があって、その長(ヘッド)を、特に選挙で選ぶということになっている以上、Aさんを推したい人々、Bさんを推したい人々、Cさんを推したい人々・・・といった集団は生まれざるを得ない。

パーティをいくら禁じたところで、集団で集めた資金の透明化のルールを徹底したところで、つまりは派閥を解消しようとしたところで、「〇さん推し」の集団・仲間はどうしても誕生する。むしろ、誕生しなければ混乱を招くだけである。

その上で③の機能は残るものの、今後、①や②のカネや人事関連の機能は、自民党本体がより積極的に担っていくことになると思う。むしろ、今回のピンチを受け、やくざにも喩えられる派閥の親分たちの集まり・合議による決定などの前近代的な統治システムから脱皮して、自民党は徹底した近代政党に生まれ変わった方が良い。派閥としてではなく、党として公明正大に資金・浄財を調達し、それを派閥と関係なく、構成員たる党所属議員などに必要に応じて透明に分配するべきである。

人事も派閥ごとではなく、党として、しっかりと必要な人材・人員を募集し、適材適所で、議員、議員のスタッフ(秘書等)、党本部のスタッフ、党の政策研究員、庶務担当等々、を採用・任用して行くべきである。

正直、これまで、そうした普通の大企業がやっているような、人材の採用や人事管理、資金調達・管理は、自民党として、しっかりした形では行えていなかったのが現状であろう。ピンチの際の改革で却って大きく生まれ変わった例は、古今東西、官民問わず、枚挙にいとまがない。自民党は、今回の危機を猛省し、しっかりとした近代政党路線に向かうべきである。

このように①や②(カネや人事のとりまとめ)だけを考えると、上記のような党改革が進めば、派閥は雲散霧消していくことになるが、先述のとおり、③はより先鋭化した形で残る。考えてみれば、自民党の国会議員になるということは、有権者の付託を受けて、正しいと思われる政策実現のために、総裁(=総理大臣)を魂の一票で選ぶ、ということでもある。

その魂の一票を、自分が総理総裁になってもらいたいと心から思う人以外の人に投じるというのは、有権者への裏切り行為とも言うべき罪深き行いである。もう少し丁寧に書けば、例えば、自らの信念としての政策実現のため、Aさんを総理総裁として戴きたいがために、Aさんを支持する人たちとグループを作ると、それが「派閥」的なものになるわけだが、それは当然の動きであり認めなければならない現象といえる。

しかし、本心ではBさんが総理総裁になるのが良いと思っているのに、ある派閥に属しているがために、その親分の意向で、派閥として一致団結してAさんを推すという場合は、上記のとおり「有権者に付託された魂の一票を売り渡している」ことになり、大問題とも言える。

そして実際、例えば、麻生派や二階派は、派閥の長である麻生氏や二階氏が総理総裁になる可能性はほぼゼロであることからして、その魂の一票を、麻生氏や二階氏に委ねるための集団、ということになる。

こういう状態は、やはり健全であるとは言えず、今回の派閥解散の流れを経て、「ある政策実現等のために、本当に総理総裁になってもらいたい人を推す人たちの集まり」こそが、新しい派閥的なるものの形になることを期待してやまない。

派閥はなくなり、今後は議連など、特定の関心政策や当該政策変更のための集まりが自民党の中心になる、と解説している人もいるが、私見では、政党といえども生身の人間たちの集まりであることを考えると(近い将来、AIによる政治、みたいな時代が来ないとも限らないが)、そうした政策別というよりは、政策を基軸としつつも、「誰をトップに戴くのか」という志向別の集団として、派閥的なものは残り続けることになると考える。

これまでの派閥の流れを乱暴に大きめの地域の商店街(一定のエリア内に、通りごとに商店街が乱立したりしているケースも少なくない)で喩えると、元々は個人商店だった雑貨屋(個々の政治家)が、地域での存在感を発揮するために〇〇商店街組合という名の集団に加わったものの(派閥)、商店街組合や商店街そのもの(派閥)の衰退・解散とともに、全国チェーンのコンビニなどに衣替えして商店街を離脱してしまう、みたいな状態に来ていると言える。

個人商店が、全国チェーンの店にドンドン置き換わって行くことは、近代合理主義の帰結としては、理解できる。客観的な公正性を重視して、効率を考えて合理的に判断すれば、個人商店を続けていくより、全国チェーンの傘下に入って行くことは理にかなっている。

今回の派閥解消の流れを受け、自民党も党として、上述のとおり、合理的客観的に政治家個人個人を傘下に収めて「統治」し、公明正大に資金の流れや人事を差配して今後は運営していくことになるであろう。ガバナンスとはそうしたものである。

ただ、最後に考えなければならないのは、果たしてチェーン店ばかりの商店街に魅力を感じるであろうか、ということである。合理的・便利なだけの商店街に愛着をもって何度も訪れたくなるであろうか。

ここにおいて大事になるのは、全体としてのガバナンスを利かせつつも、個々の政治家が、個人商店としての矜持をもって、個性を発揮することが求められる、ということだ。すなわち、お金や人事面では、党全体の仕組みに依存しつつも、逆に依存することで浮いた時間等を有効に活用して政策力を磨き、個としての自己主張をきちんと持ち、培われた見識に基づいて誰を総理総裁に戴くのか、魂の一票を行使する個としての力も問われるということだ。

このことは、自民党で今後、議員の採用や育成を中心的にしていく人たちや、自民党の政治家になろうとする個々人が強く意識しなければならないことだと思う。

ガバナンスが利くだけになると、それは、日本においては共産党や公明党に近く、両党には失礼な書き方になるが、例外的な方も少なくないものの、一般的には政治家としての個性は欠けていってしまう。ガバナンスが極端な場合は、中国共産党や統一ロシアになってしまい、党そのものが巨大な一つの派閥のような形になってしまう。一人の親分が全てを決める形となって各政治家は個性を失い、何の多様性も感じない、同じ店がいくつも並んでいるような、非常につまらない商店街のようになってしまう。

自民党が今回の派閥解消の流れを機に、近代政党としてしっかりとガバナンスを利かせつつ、個々の政治家の育成においては、個性を発揮できる政治家に育つようになること、すなわち、求心力と遠心力がバランス良く働く政党になることを願ってやまない。