礼楽を楽しむ

『論語』の「李氏第十六の五」に、「益者三楽(さんらく)、損者三楽。礼楽(れいがく)を節せんことを楽しみ、人の善を道(い)うことを楽しみ、賢友多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽を楽しむは、損なり」という孔子の言があります。之は「三種類の楽しみは有益で、三種類の楽しみは有害である。礼楽の楽しみ、他人の長所を語る楽しみ、多くの賢人と交わる楽しみ、これらは有益である。贅沢の楽しみ、遊蕩の楽しみ、飲み食いの楽しみ、これらは有害である」といった極当たり前の言葉です。また「賢友多きを楽しむ」とは、以前この「北尾吉孝日記」で『友を択ぶ』という中で御紹介した「益者三友」の一、「多聞(たもん)を友とする」(李氏第十六の四)に同じだと思います。

常に穏やかな人物であったと想像できる孔子も、例えば宰予という弟子が昼寝をしているのを見て、「朽木は雕(ほ)るべからず、糞土の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず。予に於いて何ぞ誅(せ)めん・・・腐った木に彫刻はできない。汚れた土塀は塗りかえできない。おまえのような男は叱る価値すらない」(公冶長第五の十)と、殆ど罵倒と言っても良い程の激しい言葉で叱責しています。「益者三楽、損者三楽」ということが宰予に向けられたものかは分かりませんが、「放蕩三昧していたら色々疎かになり碌な結果になりませんから、まともな道を歩んで行きなさい」と孔子は言っているのでしょう。その意味で「礼楽を節せんことを楽しみ」としているのは一つに、礼とは基本モラルの問題だからだと思います。

『ビジネスに活かす「論語」』(拙著)プロローグの「バランスの中から調和が生まれてくる」で、私は次のように述べました――礼というものは儒学があげる重要な五つの徳目・五常の一つですが、これは決まった形式を指していると考えていいでしょう。(中略)一方、楽というのは音楽のことです。この礼と楽が一つになって、バランスを形成しているのです。キリスト教では賛美歌を歌います。仏教では読経自体が一つの楽を奏でていますし、その合間に鐘をチーンと鳴らしたり、木魚をポクポクと叩いたりします。これらは礼楽が合わさったものと見なすことができるでしょう。礼ばかりでは形式的になりすぎて堅苦しさだけが残ってしまうし、楽ばかりでは節とケジメというものが失われてしまう。その両者のバランスがうまくとれて、人の心は和み、厳かな雰囲気も保てるのです。すなわち、礼楽が揃ったときに一つの調和が生まれるわけです。そういうふうに調和をすることが一番大事であると、『論語』は教えています。

孔子は「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」(雍也第六の二十九)と言うぐらい中庸を最高至上の徳として、真善美・知情意・詩礼楽等あらゆる面でバランスの取れた人物を君子として尊び、自身も此の最上の徳の境地に近付こうと修養を積み重ねました。孔子流の考えとは、礼と楽とが相俟ってバランスを取り情操も成長させて行くというものです。礼楽を楽しむは、非常に大事なコンセプトだと思います。


編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年2月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。