「自由のための戦いを諦めてはいけない」:ミレイ大統領CPAC演説全文

今年11月に大統領選挙を控えるアメリカで、2月下旬、首都ワシントン近郊で保守系政治集会「保守政治行動会議(CPAC)」が開催されました。

アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領も出席し、今年1月のダボス会議での演説の「政治的見解を支えたテクニカルな基盤」について話しました。

今回は、CPACのミレイ大統領の演説全文を和訳して紹介します(太字と括弧と※注は筆者です)。

こちらのダボス会議の演説のnoteも合わせて読んでいただけると、理解しやすいと思います ↓

ダボス会議で西側諸国の「社会主義化」を警告~ミレイ大統領の演説全文|自由主義研究所
「ダボス会議」(世界経済フォーラムWEFの年次総会)は、スイスのダボスで例年この時期に開かれており、今年は1月15日から19日まで開催されました。 120の国と地域から合計2800人ほどの政財界のリーダーたち、60人以上の各国の首脳らも訪れるエスタブリッシュメントの大会です。日本の政治家は河野太郎氏が参加されました。...

「自由のための戦いを諦めてはいけない」

皆さん、こんにちは。私はライオンです!自由万歳! ローカルな現象に過ぎないと思われていたものが、少し大きくなったようです。

まず最初に、ご招待いただいたことに深く感謝いたします。

今日の会議についてですが、私は以前ダボス会議で講演し、社会主義的、国家主義的思想の台頭によって西側が直面している危機を強調しました。今日は、ダボス会議で私が話した政治的見解を支えたテクニカルな基盤に焦点を当てたいと思います。

その意味で、新古典派経済学とその「市場の失敗」に対する見方が、いかに社会主義の前進を促進しているか、そしてそれがいかに幸福の向上と貧困との闘いにブレーキをかけ、経済成長を破壊しているかに焦点を当てて話そうと思います。

この問題の発端は、「モデルと現実」の方法論上の問題です。現実は常に分析するのが非常に複雑であるため、モデルを用いて分析されますが、一般的に、モデルが現実と一致しない場合は、モデルは修正されます。新古典派の問題は、モデルが現実と一致しないという問題に直面すると、現実に対して怒り、それを「市場の失敗」と呼ぶことです。

この問題の起源は、競争的均衡理論の規範的な性質に関連したものです。つまり分析が均衡の存在性、独自性、安定性に焦点を当ててきており、政治的観点から見た深刻な問題だとは考えられて来なかったのです。
厳密に言えば、問題が生じるのは、規範的な分析をパレート最適性の分析とともに視野に入れるときです。

基本的に、パレート最適の考え方は「他の誰かを悪くすることなく、誰かを良くすることはできない」というものです。具体的に言うと、私が誰かを改善できる状況にあり、他の誰かの状況を悪化させることなく、その人の状況を改善した場合、それはパレート改善と呼ばれます。そして明らかなことですが、そのような機会が尽きたとき、パレート最適に達していることを意味します。

「市場の失敗」の定義にはさまざまな呼び名がありますが、ひとつは非凸性、つまり収穫逓増の法則です。より一般的に言えば、市場構造の集中や独占です。

他のケースとしては、外部性、つまり公共財における非対称的な情報の問題や「囚人のジレンマ」があります。そして実際には、これらの難しそうな定義はすべて、国家介入を可能にし、国家主義者や社会主義者の前進を可能にする要素なのです。

しかし、抽象的にならないように、実際の例をあげようと思います。まだロウソクが使われていた時代、エジソンがまだ登場していなかった時代を考えてみましょう。エジソンが小さな電球を持って登場した瞬間、ろうそくメーカーがすべて倒産するのは明らかです。当然のことながら、私たちが介入者たちに注意を払っていたら、今日、この美しい会議をこれだけの明かりの中で開催する代わりに、ろうそくを灯しながら開催していたでしょう。

こうして社会主義者は私たちの生活を台無しにするのです。私たちがパレート最適を捨て、技術の進歩とともに前進していることに感謝したいと思います。

ですから、まず理解しなければならないのは、市場とは何かをきちんと定義することが必要だということです。その意味で、市場とは社会的協力のプロセスであり、そこでは財産権が自発的に交換されます。実際、交換は自発的なものであるため、市場の失敗について話すことは不可能です。なぜなら、自虐的な行動をする人はいないからです。したがって、市場を適切に定義すれば、介入の定義はすべて崩れます。

その一方で、市場という考え方の土台となる制度について明確にしておくことも非常に重要です。非常に重要な2つの制度は、「私有財産」と「国家介入のない市場」です。なぜなら、基本的に、財産権を交換するつもりなら、それは私有財産が重要であることを意味するからです。そして、その交換が自発的なものならば、国家の侵入的で暴力的な存在が入り込む余地はありません。

この意味で、交換が行われ、誰かが貨幣と引き換えに財を与えると、価格という歴史的記録が作られます。そして、その価格という歴史的記録は、情報を伝達するメカニズムであり、ある人々を供給者とし、他の人々を需要者とするため、調整メカニズムにもなります。

そして、需要量と供給量は必ずしも一致しないので、需要が供給量を上回れば価格は上がり、その逆であれば価格は下がります。つまり、調整プロセスが存在します。

つまり、私有財産と自由市場が価格システムの機能を決定し、それが経済計算を可能にするのです。

そしてこれは、社会主義がどの側面においても機能し得ない理由を示しています。最も極端な場合には、私有財産が存在しないため、市場が要求する交換を行うことができないからです。

そして第二に、民間部門の存在を認める軽いバージョンの社会主義では、国家の干渉が価格システムにノイズを発生させ、国家が存在すればするほど、暴力が増え、歪みが増し、システムがより悪化します。

市場にとってもう一つの重要な制度は、いわゆる自由競争ですが、新古典派的な完全競争という意味ではありません。自由な参入と退出という意味での自由競争です。

他方、非常に重要な制度が2つあり、それは「分業」と「社会的協力」です。分業はアダム・スミスによって最もよく説明されました。

11人では生産できるピンは20個だけですが、その作業を15人で分担すれば、1人あたり5,000個のピンを生産できます。つまり、75,000個(5000個×15人)のピンを生産できるようになります。

しかし、75,000個のピンの需要がない場合、それほど分業は行われないということが問題になります。(※注:つまり、国内需要が十分に大きくなければ、分業が不十分になってしまうということ。だから貿易が必要になる)。

そして、これが社会的結合の考えと組み合わさることで、最終的に社会主義的考えを完全に破壊することになります。

ひとつは、「私は彼を憎んでいるかもしれないが、彼に私の製品を買ってもらう必要がある。だから、良いものを提供するしかない」

だからこそ、バスティア(※)が言ったように、「貿易が入ってくるところには、銃弾は入ってこない」のです。自由貿易を促進することは、平和を促進することなのです。

※フレデリック・バスティア(1801〜1850)
フランスの経済学者。自由主義者。
代表作は『見えるものと見えないもの』『法』『経済学の詭弁』

フレデリック・バスティア

そして同時に、社会的協力のプロセスとしての市場は、社会主義に対するとてつもない爆弾でもあります。交換が自由であるということは、交換に関わる2者がともに利益を得るということだからです。したがって、搾取理論の余地はありません。剰余価値の余地もありません。マルクス主義と社会主義の余地もありません。

同時に、市場の論理では、成功した起業家は社会の恩人であることに注意することが重要です。なぜなら、自由市場の資本主義では、より良い品質またはより良い価格の商品で他者に奉仕することによってのみ成功することが可能だからです。

もしその起業家がうまくいっていないなら、同じ商品をより良い価格で提供できる別の起業家が現れるかもしれないし、同じ価格でより良い品質の商品を提供できる別の起業家が現れるかもしれません。そうすれば、非効率な企業は倒産し、福祉は向上するでしょう。

したがって、起業家は社会の恩人なのです。なぜなら、起業家は、より良い品質の商品をより良い価格で提供し、同時に雇用を創出し、社会全体に進歩をもたらすからです。だから、繁栄の礎となる起業家たちを受け入れるべきなのです。

この序文を踏まえて、新古典派のジレンマがどこにあるのかを直視する価値があります。

経済成長理論とその実証的証拠の中で、これは「ホッケースティック」と呼ばれています。歴史を見ると、西暦以降、0年から1800年までの一人当たりGDPはほぼ一定でした。しかし、1800年から現在までに一人当たりGDPは、15倍以上に増加しました。また、同じ期間に 1800年の人口は8億人でしたが、現在では10倍になっています。つまり、一人当たりの生産性が向上し、さらにGDPは約150倍となり、人類史上最高の時を迎えているのです。国家の存在にもかかわらず、です。

そして、このような著しい経済成長の同じ時期に、極度の貧困は人口の95%から5%に減少しました。しかし、このような収穫逓増の法則は、集中構造の存在、すなわち独占の存在を意味します。そこで疑問が生じます。

これほど多くの福祉をもたらし、貧困を削減したのであれば、なぜ新古典派理論は独占を悪だと言うのでしょうか?

実際、無政府資本主義の発明者であるマレー・ロスバード(※)が言うように、問題は、新古典派の分析が間違っていることなのです。

例えば、携帯電話を製造するために10社が競争していたとして、そのうちの1社がより良い品質の携帯電話をより良い価格で製造する技術を発見したとします。当然、他の9社は倒産することになります。
しかし、より良い携帯電話をより良い価格で手に入れることに文句を言う人はいるでしょうか?

そういうわけで、新古典派理論は捨ててください。

※マレー・ロスバード(1926〜1995)
オーストリア学派の経済学者。「無政府資本主義」の理論体系を提唱。
アメリカ合衆国のリバタリアニズム運動の中心的重要人物

マレー・ロスバード

それでは、新古典派理論の誤りはどこにあるのでしょうか? 最も単純なバージョンでは、独占価格は競争価格より高く、生産量は競争のある場合より少ないからと言われます。

しかし、この分析にはいくつかの問題があり、間違っています。第一に、これは部分均衡分析にすぎないため、単一市場の均衡しか考慮せず、経済の他の部分を考慮していません。言い換えれば、私はハビエル・ミレイに対して独占権を持っていますが、あなた方はそれぞれ自分自身に対して独占権があります。そしてこれは何の問題もありません。幸いなことに、私たちはみんな違っています。神に感謝いたします。さらに言えば、私たちは社会主義の灰色の画一性を好まないからこそ、その違いを尊重するのです。

しかし、新古典派理論は、市場の他の部分を考慮しない部分均衡分析であるために間違っているだけではありません。将来の影響、つまりこれらの市場構造が将来に与える影響を考慮していないため、非常に粗雑なのです。

実際、これはアメリカの経済学者であり思想家であったヘンリー・ハズリットの『La economía en una lección(世界一シンプルな経済学)』というすばらしい本を思い出させます。その本には次のように書かれていました。

「良い経済学者と悪い経済学者の違いは、悪い経済学者はある期間の市場しか見ていないのに対し、良い経済学者はすべての市場を見ており、現在だけでなく将来も見ている」という言葉です。

従って、独占とその規制に関する従来の分析は、悪い経済分析の一部であることを示すことになります。さらに、利益が経済成長を生み出す要素であることを考えれば、利益を台無しにすることは、成長にマイナスの影響を与えることを意味します。

問題は、この分析に対する本当の答え、あるいはこの分析の本当の根拠は何なのかということです。実は、その答えは経済分析にあるのではなく、一般均衡が用いる数学的構造にあります。基本的には、パレート最適の分析と生産集合における非凸性の問題に関係しています。パレート最適とは、既存の均衡がパレート最適であるためには、消費者と生産者の両方が最大化しなければならない、というものです。

そして問題は、収穫逓増の場合、凸型の生産関数になり、その関数の問題は、最大値を見つけることができないということです。当然のことながら、これも数学的な誤りです。

というのも、収穫逓増の場合、経済内のすべてのリソースを使用した場合に最大値を見つけることができますが、その場合、1つの会社だけになるという別の問題が発生することになります。

しかし、経験的に正しいと思われることは、別の概念上の間違いもあります。なぜなら、それは基本的に企業の本質を無視することを意味し、とりわけ以下の事実を無視しているからです。

企業は人間によって運営されており、より多く生産するためにより多く働こうとすれば、当然、自由時間の機会費用は驚異的に増大します。1日24時間、週7日働かなければならないのであれば、年俸1,200万ドルの仕事に何の意味があるのでしょうか。自らの人間性と衝突することになります。しかし、新古典派の分析では、企業を人間に依存するのではなく、機械であるかのように扱うのです。

最後に、独占企業に対するもうひとつの批判は、独占企業は経済における生産量を少なくするというものです。しかし、これも誤りです。独占企業が稼いだお金は、明らかに消費に使われ、経済の他の場所で生産と雇用を生み出すことができるからです。

では、ケインジアンをさらに苛立たせるようなケースをいくつか考えてみましょう。大きな利益を貯蓄に回したらどうなるでしょうか?

その貯蓄は他の企業への投資に変わり、他の部門で生産と雇用の増加を生み出します。何も失われることはありません。あるいは、この独占企業が非常に野心的で、すべてを自分の会社に投資したいと考えたとしましょう。そのため、彼の貯蓄はすべて投資に回されます。しかし、その投資は、より多くの資本、より多くの生産性、より高い賃金、そして同時により多くの財の生産を意味します。したがって価格は下がり、賃金はより高く物価はより低くなり、したがってすべての幸福が向上するのです。

さらに、独占者が消費すれば幸福が生まれ、金融システムに貯蓄すれば幸福が生まれ、貯蓄し自分に投資すれば幸福が生まれるのだから、独占者に対するこれ以上の攻撃は見られなくなります。

では、「呪われた企業家」がそのお金を埋めると決めたらどうなるか考えてみましょう。すると、誰もそのお金にアクセスできなくなります。

何が起こるでしょうか?

経済におけるお金の量は減り、物価は下がり、国民全体が恩恵を受けます。しかも、デフレの恩恵を受けるのは最も所得の低い人々です。したがって、介入を正当化するような分析はすべて、より多くの国家と、より多くの国民への害悪を生み出すだけです。

このプレゼンテーションの最後に、社会主義者の介入がいかに経済を破壊するかを示しましょう。

社会主義者による攻撃は、基本的に2つの観点から行われます。

一つは独占の規制です。独占を規制することによって、収穫逓増の効果を損ない、経済を停滞させるのです。新古典派の理想に基づいて規制すれば、「準レント(準地代)」はゼロになります。したがって、成長するインセンティブがない完全競争の世界になってしまいます。

結局のところ、それが行うことは、シュンペーターのいう創造的破壊のプロセスを中止することです。なぜなら、これらの創造的破壊のプロセスは、社会のいくつかの問題を解決することでより多くのお金が得られ、それが技術の進歩と成長を生み出すという考えに基づいているからです。したがって、価格や量を規制することは財産権を破壊することを意味するという事実だけでなく、もし利潤を規制すれば、停滞という問題を抱えることになります。

実際、私が知っているアルゼンチンという国の例をお話ししましょう。

20世紀には世界で最も裕福な国のひとつであったにもかかわらず、現在では世界ランキング140位で、50%以上が貧困層、10%以上が極貧困層です。規制の数を見れば、その理由がわかるでしょう。

私たちの政府チームの中で、経済システムの機能を妨げている38万もの規制を発見しました。我々の2大要求は構造改革であり、DNUと基礎法は、アルゼンチン国民にもっと自由を与え、より競争的な市場構造に移行し、そして何よりも政治から腐敗をなくすことを提案するものです。

この退廃的なシステムの受益者たちは、腐敗したカーストのために善良なアルゼンチン国民を貧困化させています。私たちは、この退廃的なシステムの受益者から大きな抵抗を受けています。

腐敗したカーストとは、アルゼンチン人の幸福よりも自分たちの特権を優先する泥棒政治家、腐敗した政治家と取引する実業家、私たちが公式広告を排除したために私たちに怒り心頭の腐敗したメディア、国民を敵に回して自分たちのビジネスを世話する労働組合員、そして国家という宗教に奉仕し腐敗した人々を擁護することで生活している専門家で構成されています。

彼らは、私たちの偉大な闘いに気がつくでしょう。しかし、我々はアルゼンチンを再び偉大な国にすることを諦めるつもりはありません。

社会主義者と国家主義者が攻撃するもうひとつの大きな脅威は、基本的に効率と分配の議論です。そこでは、資本主義は超個人主義的なシステムであると指摘され、他人の金を使った社会主義的な利他主義と比較されます。
社会主義の利他主義は、常に他人の金が使われるのです。

そしてこの逸脱は、社会正義の名の下に実行され、ハイエクは、これをずるい表現だと語っていました。社会主義者たちが、この「正義」という言葉を使うたびに、それはまったく逆の意味をもっていました。実際、偉大なヘスース・ウエルタ・デ・ソト(※)が言うように、社会正義は暴力的で不正義であり、正義でも社会的でも何でもないのです。

ヘスース・ウエルタ・デ・ソト(1956~)
現代オーストリア学派の経済学者。
著書「通貨・銀行信用・経済循環」「オーストリア学派」は、自由主義研究所の主任研究員・蔵研也が翻訳しています。

ヘスース・ウエルタ・デ・ソト

第一に、それは法の下での不平等な扱いを意味し、社会正義が意味する再分配は、ある者から盗んで別の者に与えることなので不当です。これは社会正義を暴力的なものにしているだけでなく、不正義なものにしています。

これと同じように、「制限のない民主主義」という考え方も、問題をさらに悪化させています。民主主義は本来、少数派の中でも最も小さな存在である個人の権利を尊重するように設計されたものです。しかし、社会主義の思想が入り込み、制限のない民主主義という考え方が入り込むと、ポピュリズムが入り込みます。

抽象的な話にとどまらないように、例を挙げましょう。4匹のオオカミと1羽のニワトリが集まったとしましょう。さあ、今夜何を食べるか投票しましょう。

…彼らはニワトリを食べました。

基本的にこれは経済でも起こることで、金の卵を産むガチョウは富を生み出す層ですが、所得分配の形により、人口の80%が平均所得以下の所得しかありません。

そこで登場するのが、金持ちから巻き上げて貧乏人に配ろうというポピュリスト政治家です。ベネズエラ、アルゼンチン、そしてすべてのラテンアメリカのポピュリズムだけではありません。そうなれば、利益は破壊され、経済成長は破壊されます。

現実的な話をするならば、アルゼンチンは4億人以上の人類のための食料を生産している国ですが、食料生産部門の税負担は70%です。つまり、2億8000万人分の食料を国が奪っているのです。それにもかかわらず、忌々しい国家のせいで食べることができないアルゼンチン国民が500万人もいるのです。

社会主義者が議論するもう一つのものは、所得の分配に関係するものです。彼らはこのシステムが不公正だと言います。イズラエル・カーズナーの『Discovery, Capitalism and Distributive Justice』というすばらしい本があります。

その本は、「資本主義システムの方が生産性は高いが、もしそれが本当に不公正であれば、擁護する理由はない」というカーズナーの仮説に基づいています。その意味で、これは2つの考え方に基づいています。

1つは、ジョン・ロックの無主物先占の原則、つまり発見した者がそれを手に入れるという原則です。何かを発見したら、それを自分のものにするのです。

そしてもう1つの考え方はハイエクのもので、発見プロセスとしての市場というものです。これは、分かち合うケーキは存在せず、ケーキは生産されるときに創造されるということを意味しています。したがって、生産工程を進めるうちにそのケーキが発見されるのであれば、そのケーキはそれを発見した者によって占有されるのが道理です。

だから、資本主義システムは、より生産的であるだけでなく、公平な唯一のシステムでもあります。そして、あらゆることを考慮しても、私たちが社会主義者たちを牽制していることは真実です。

彼らにもう一度言いましょう。

独占を規制し、企業を規制し、かつては競争的プロセスであったものを規制し、同時に社会正義の概念を導入すれば、当然ながら停滞を招きます。

そして、この停滞は、人口の増加を考えれば、その国の段階的な貧困化につながります。

これをどうやって是正するかといえば、中絶という殺人的な政策で是正するのです。

その起源は、ユダヤ人を絶滅させようとしたエジプト人や、避妊を奨励したマルサスの『人口論』と「賃金の鉄則」にあります。あるいはもっと身近なところでは、1960年代の終わりにローマクラブが発表した「世界は化石燃料で動いており、これらのエネルギーは再生可能ではないため、2000年にはこれらの資源が枯渇する」という予測にあります。

しかし、このような状況は、すべての人の食料がなくなり、私たちが死に、地球上に10億人しか残らないことを意味します。

そして今日、ニクソンとキッシンジャーの機密ファイルが公開され、彼らが中絶という殺人計画を提案していたことがわかりました。たとえば、〇〇は(※注:不明です)、世界中にはマクドナルドよりも店舗数が多いのです。

しかし幸いなことに、今日80億の人間が世界で暮らしているのだから、彼らはまたもや間違っていたのです。しかしながら、彼らはこの殺人的な政策を止めません。

実際、ポスト・マルクス主義は経済分野での敗北に直面し、階級闘争の戦いを生活の他の側面、例えば環境主義に移しました。地球温暖化については、地球の歴史上すでに4回起こっています。まだ人類はいなかったのに、温暖化を人間のせいにしているのです。

この問題を解決するために、ネオ・マルクス主義者は、人間を絶滅させること以外には考えません。もし私たちが本当に資源に問題を抱えているなら、私たちは死刑を宣告されるのではなく、他の惑星に植民地化することを望むべきです。実際、人口増加に反対するこれらの分析はすべて間違っています。

ここで、ジュリアン・サイモンという非常に楽観的な経済学者の例を挙げましょう。彼は、人口増加はより多くの技術進歩をもたらすと指摘しました。彼は、基本的には、人が増え欠乏などの問題が発生すると需要によって技術が成長し、それが価格体系に影響を及ぼし、これらの問題を解決するために新たな改革と新たな技術進歩が生み出されたと指摘しました。

一方、彼は、技術進歩は供給側によっても推進されると指摘しています。例えば、モーツァルトが生まれる可能性は、人口が100万人の場合のほうが、人口が10人だけの場合よりもはるかに大きい、と指摘しました。

要するに、私が伝えたいことは以下です。

社会主義を進めてはいけません。
規制を支持してはいけません。
市場の失敗という考えを支持してはいけません。
殺人的な政策の推進を許してはいけません。
社会正義のサイレンの歌に流されないようにしてください。

私はこうした愚かな考えをすべて採用した国の出身です。アルゼンチンは、世界で最も豊かな国のひとつであったにもかかわらず、今は140位に甘んじているのです。自由のために戦わなければ、不幸に追いやられることになるのです。

しかし、私は楽観的なメッセージも残したいと思います。

アルゼンチンは、社会主義者たちが決めた貧困を強いられる羊の国のように見えました。私が国会議員になるために政治家としてのキャリアを始めたとき、私はこう言ったのを覚えています。

「私は子羊を導きに来たのではない、ライオンを目覚めさせるために来たのです」。

そして毎日、私たちはより多くのライオンを目覚めさせ、自由のメッセージは私たちをアルゼンチンの大統領に導いただけでなく、全世界を目覚めさせました。

だから、自由のための戦いをあきらめてはいけません!

自由万歳、自由万歳、自由万歳!ありがとうございました。


編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年3月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。