東京・神楽坂:石畳の細い路地をそぞろ歩く

東京に5年間住んでいたのに神楽坂には行ったことがありませんでした。

高田馬場で資格試験の勉強をしていたころ、東西線で帰路についていたけど素通りしていた神楽坂。この町の良さを感じるにはまだ若すぎたのかもしれません。

神楽坂は飯田橋駅から北西に延びる早稲田通りの一部を構成する坂の名前です。そのいわれはこの坂の右手に高田穴八幡の旅所があって祭礼の神輿神楽の音が響いたからとも、若宮八幡の神楽の音が聞こえてからとも言われていますが定かではありません。

いずれにしてもかつてこの街がかつて祭りで賑わい、神楽の音が鳴り響いていたことだけは定かのようです。この通り自体は垢抜けた店が多く、人通りもとても多いのですが少し脇に道をそれるとまた違った顔を見せてくれます。

大正期には花街として栄えた神楽坂。「神楽坂」と書かれたあたりが神楽坂ですが、その北部分は花街が関東大震災で消え、東京大空襲で東京が焼け野原になったあとも細い路地や行き止まりの道が残されています。

車の通れない細い石畳の道が町のあちこちにあり、そんな狭い通りにも料理店が軒を連ねています。だれがつけたか定かではありませんがこの通りは「かくれんぼ横丁」と呼ばれています。神楽坂の細い路地にはそれぞれの通りの個性にあった通称がつけられており、それが神楽坂散歩を一層楽しいものにさせてくれます。

住宅と料理屋が混在する「酔石横丁」。さらにこの先には東京理科大学森戸記念館もあります。様々な施設が混在する街です。

酒ト壽さん。

こんな狭い通りにも居酒屋が!こんな隠れ家的な店を知っていたらカッコいいですよね!20代のころには通り過ぎてた神楽坂。30年を経た今も東京にいたならこの街の風情に酔いしれ入り浸っていたかもしれません。

降りた先にはまた小粋な料理屋。何軒もはしごしたい。
お金と胃袋がたくさんあればだけど。

この料理屋の並ぶ「兵庫横丁」は牛込城の武器庫があったことから名づけられました。奥に見える和可菜は老舗旅館で山田洋次監督らが作品を書き上げた場所としても知られています。

神楽坂の横丁を抜けて今度はいくつかの坂をご紹介しましょう。牛込消防署から赤城神社に向かって伸びるこの坂は瓢箪(ひょうたん)坂。瓢箪みたいにくびれてるから、ということだそうですが…くびれてる?

朝日に向かって伸びているわけではなく、朝日天満宮があったから朝日坂。この神社も、かつては牛込朝日町と名乗っていたその地名ももうなく、坂道だけにその名を残します。

今回通った坂で一番気に入ったのが袖摺坂。坂じゃないじゃん、階段じゃん!というのは言いっこなしで。袖をすり合わせるほど狭いことから名づけられた粋なネーミングです。

時系列的に前後しますが、瓢箪坂を抜けたあと朝日坂に行く前に赤城神社に立ち寄りました。赤城の名の通り群馬にゆかりがあり、1300年に群馬の豪族がこの地に移った際に地元の神社の分祀をしたことが始まりといわれています。神楽坂地区の中心的な神社で東西線神楽坂駅も目の前にあります。

そんな由緒正しい赤城神社、最近再生プロジェクトが行われ随分垢抜けた神社になりました。神社の中にはAKAGI CAFEがあって、パスタやスイーツを味わえます。このカフェが入っているのはマンションの1階。赤城神社はマンション開発とともに再生されました。

ちょっと陰ってしまいましたが、拝殿も新たに建て替えられて現代風に。狛犬もスフィンクスみたいで斬新ですがこれは加賀白山犬といって江戸時代に多くあった伝統的なものだそう。現代と江戸時代のものが絶妙にマッチしています。

この建物やデザイン、どっかでみたような…と思ったらやっぱりこの人でした、隈研吾さん。隈さんが氏子であったことが縁でこの再生プロジェクトに参加されたそうです。

花街の面影を残し、細い路地が迷路のように続く神楽坂。道の先にはなぎがあるのかわくわくしながらそぞろ歩くことができました。みなさんもぜひ一度歩いていただき、自分好みのお店を探してみるのも楽しいかもしれません。


編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2024年3月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。