今回は、アメリカの歴史の6回目です。
いよいよ独立戦争が勃発します。
※このシリーズは、歴史を学ぶことで自由主義を理解しやすくなるために書いています。そのため、実際の戦闘の様子については書きませんので、ご了承ください。
- 7年戦争(フレンチ・インディアン戦争)でフランスに勝利したイギリスは、北米大陸の東半分の明白な支配権を手に入れ広大な領土を獲得したが、7年戦争での莫大な戦費やフロンティアの防衛費が必要だった。
- 北米大陸におけるフランスの脅威が去ったことで、イギリス本国は北米植民地に対する規制の強化が可能になり、 「有益なる怠慢」の見直しと課税強化に踏み切った。
- 印紙法・宣言法・タウンゼント諸法に、北米植民地人は反発。
- 植民地人がおこしたボストン茶会事件に激怒したイギリス本国は、強制諸法を制定。
- 1775年、北米植民地とイギリス本国との戦争が開始。1776年7月4日、独立宣言が採択された。
- アメリカの独立派(パトリオット)の指導者たちは、イギリス国制の諸原理に対して自分たちは抵抗しているのではなく、まさにその原理に拠って抗議している、と主張した。
前回までの復習です
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1. 「連合規約」の制定
1777年、アメリカの大陸会議は「連合規約」を制定します。
これが最初の連邦憲法というべき存在となります。
「連合規約」は全13条からなり、第一条に「本連合の名称」を「 United States of America 」とすると書かれています。
しかし、実態はアメリカ合衆国というには程遠く、アメリカ連合諸邦というようなものでした。大陸会議は「連合会議」と改められます。
連合会議は各邦の主権を認め、これまでどおり各邦1票の方式を採用しました。
連合会議は戦争を含む外交の権限を有すると規定されましたが、対外通商・邦間通商の規制権はなく、課税権もありませんでした。
連合規約は、13邦の軍事同盟にすぎないとみなす考えもあるそうです。
2. 独立戦争の展開
イギリス本国は、18世紀中、最大規模の軍を動員し、ドイツからも傭兵部隊を送り込みました。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1をも占めたそうです。
アメリカ植民地側は、戦争が始まった当初は、アメリカには職業的な陸軍も海軍も無く、各植民地には地域防衛にあたる民兵が存在するのみでした。
開戦時、一部を除いてこの民兵のほぼ全てがアメリカ大陸軍に加わりますが、アメリカ大陸軍はにわか作りで、常に兵員や物資が不足していました。
1775年6月、組織だった作戦行動をとるため、大陸会議は正規軍を設立しジョージ・ワシントンを総司令官に任命します。
戦いの前半戦は、北部・中部が舞台でした。
独立宣言後、イギリス軍の大部隊がニューヨーク市に上陸します。アメリカはニューヨークで敗北した後、戦争終結までニューヨークには英軍が常駐しました。
1777年10月のサラトガの戦いでアメリカは勝利し、これにより国際関係は一変します。
イギリスに対抗しているフランスは、アメリカの軍事的実力を認識します。1778年フランスは、友好通商条約とアメリカの独立を認めた軍事同盟条約をアメリカと締結しました。
スペインもフランス側にたち、イギリスに宣戦布告します。ただし、スペインは新大陸に有する広大な自国の植民地への影響を恐れ、アメリカとは同盟を結びませんでした。
オランダは早々とアメリカ独立を認めイギリスと対峙します。
ロシアは武装中立同盟を提唱し、スウェーデン・プロイセンなどもこれに参加しました。
このようにイギリスはヨーロッパで孤立し、外交的に厳しい状況におかれました。最終的に植民地側が勝利したのも、フランスの多額の援助と大陸諸国によるイギリス包囲網があったからです。
3. 独立戦争の終結
独立戦争の後半は、おもに南部が舞台でした。
1781年、フランス艦隊の援護もあり、ヨークタウンの戦いでアメリカは大勝利をおさめます。
1783年パリ条約が調印され、イギリスはアメリカの独立を認め、ミシシッピ川以東の領土を割譲しました。
4. アメリカの外交
戦争終結時のアメリカの外交についてです。
実は、アメリカ諸邦連合とフランスは、「イギリスと単独で講話しない」と条約で定めていました。
しかし、フランスは「ジブラルタルの返還まではイギリスと戦う」というスペインとの同盟に拘束されています。フランスとスペインはイギリスに屈辱を与えたい執念がありました。しかしブルボン朝の君主制である両者は、強力で独立したアメリカ共和国を実際には望んでいませんでした。特に北アメリカ大陸に領土を持つスペインはアメリカを警戒していました。
このような関係の中、アメリカの交渉担当人であるベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズ、ジョン・ジェイは、フランスと打ち合わせすべきだという連合会議の訓令を無視して、イギリスと単独で交渉を開始しました。
フランクリンなどのアメリカの交渉担当人たちは、米仏同盟の効力を弱める可能性をほのめかしながら、イギリスに対し、諸邦連合の独立を承認し、フランスやスペインが受け入れることができる国境線よりも広い範囲をアメリカに認めるように説得しました。
また彼らは米英間のこの予備条約をフランスに提示し、米仏同盟は両国間の利害の違いを敵側に対して隠しておかなければならないと示唆することで、フランスにこれを受け入れさせました。
アメリカがイギリスと講和を結ぶ見通しがでてきたため、スペインはジブラルタル返還の要求を放棄し、フロリダのみのイギリスからの返還を受け入れざるを得なくなったのです。
このように、アメリカはヨーロッパ列強相互の警戒心を利用することで、独立だけでなく、全ヨーロッパにも衝撃を与えた譲歩を勝ち取ったのです。
これはアメリカの外交の歴史で最大の成果でした。
5. アメリカ独立革命の影響
イギリス・フランス・スペイン間でもヴェルサイユ条約が結ばれ、フランスはイギリスから若干の領土を得ましたが、莫大な戦費に見合うものではなく、これがフランス革命の遠因の一つとなります。
スペインはイギリスからフロリダを取り返しました。
アメリカでは、ワシントンは総司令官を辞任し、大陸軍は最小限の兵力を残して解体となりました。平時に常備軍を保持しない方針が実施に移されたのです。
ワシントン辞任の式典は、神格化の途上にあったワシントンよりも、文民たる連合会議の権威が上位であることを示す儀式でもありました。
このように見事な引き際をみせたワシントンは、皇帝になったナポレオンとは異なり、決して王になろうとはしなかったのです。
こうしてアメリカには第二次世界大戦参戦まで続く、戦争の勃発とともに動員し戦争が集結すれば動員を解除するという軽武装国家の伝統が生まれました。
アメリカ植民地を失ったイギリスは反省し、それ以降、新税の導入には現地の行政機関の同意が必要としました。ある意味で、アメリカの愛国派の勝利はアメリカだけのものではなく、大英帝国のすべての植民地の勝利でもあったのです。
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最後まで読んでくださりありがとうございました。
次回に続きます。
編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年3月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。