テレビの吹き替えには台本がいる。そのための翻訳者もいる。
あるときそのひとりが多忙を極めた。翻訳して、それを自分で読み上げてみるという作業を怠ったところ、後で吹き替え俳優チームより「やえ子ちゃんどうしたの、体を悪くしたの?」と心配されたという。
「拭き替えの収録中、台本の台詞と、画面上の唇の動きがどうしても合わないんだ。やえ子ちゃんきっと体調を崩してるんだねって皆で心配したよ」
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この逸話を思い出したのは、音楽家・坂本龍一(1952年1月17日 – 2023年3月28日)の遺作を聴いたときだった。
それは四国のある新設の高専の校歌だった。
私の通っていた小学校校歌は、彼の作曲の師匠・松本民之助の作だ。その高弟による校歌、しかも遺作となれば、ロマンチックな期待を抱かずにはいられない。
だが、いざ生徒さんたちの合唱をネット動画で拝聴して、ひとり口ずさもうとしたら…
歌えない――歌詞カードを見つめながら、私は戸惑ってしまった。
♪くも(雲)の えが(描)くいま(今)の
この出だしを、どうか伴奏なしで(つまり耳の記憶で)歌ってみてほしい。
私も含めほとんどの方が、こう旋律を歌うだろう。
だが実際の合唱を聴きかえすと、こんな風なのだ。
どうか皆さんも声をあててみてください。旋律こそ美しいが、現地の生徒さんたちによる合唱も、どこか歌いにくそうなのが、体感できるだろう。
校歌の必須条件であるところの「歌いやすい」が失点なのだ。
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ご承知のように、坂本はその優れた耳と鍵盤楽器演奏能力とは裏腹に、歌うのはとても下手だ。
そのせいだろう、自分で歌う楽曲については、彼の地声をほうふつとさせる、素朴でチャーミング、つまり誰にでも歌いやすい旋律が唄われる。
とりわけ「ぼく」という一人称で歌われるものには、味わい深いものがある。
以下は1995年のアルバム「スム―チー」収録のものから。
♪ぼくらは いしき(意識)の たび(旅)にでる
ユーロビート系が日本のヒットチャートを席捲するなか、この歌は(アルバムともども)商業的惨敗に終わったが、彼自身は「鍵盤といっしょに口ずさみながら作った。ぼくの地声が感じられる、お気に入りアルバム」という意の発言を残している。
もっとも、およそ30年の時を経た今、この歌を聴きかえすと、彼の素朴な地声と、鋭敏な和声耳の不和とその相克ぶりがうかがえて興味深い。
試みに皆さんにも、この歌「電脳戯話」の出だし部分を口ずさんでみてほしい。
♪ぼくらは いしき(意識)の たび(旅)にでる
私も含めて、多くの方は、下の旋律のほうが(やや野暮ったくなるが)きっと歌いやすい。
しかし彼が歌ったのは、この音だった。
伴奏を付けて歌ってみるとわかるが、赤の音を選んだほうが、小節全体ではぐっと洗練されたハーモニーになる。
ただ「レ↗ラ↘ミ」の動きだと、少々大股なジャンプで、ひとの喉には少々辛い。
彼の代表曲「メリークリスマス・ミスターローレンス」(いわゆる「戦メリ」)のイントロを口ずさんでみてほしい。
この曲は、映画音楽であって歌ものではないけれど、口ずさむと、とても歌いやすい。それはこの「ミ」が、続く「ラ」への跳躍台になっているからだ。
一方、この「電脳戯話」は、作詞家による「ぼ、く、ら、わ、い、し、き、の、た、び、に、で、る」のひとつひとつに四分音符(♩)の音を付けていくぶん、「ミ」がどうしても挿めない。
挿みたくても、音節が足りないのだ。
そういうわけで坂本は「レ↗ラ」(し・き)のあいだに「ミ」は挿まず、旋律を↗(急上昇)させている。
これは和声的にはスマートではあるが、歌うとなると、喉がやや苦しくなる。
それゆえ耳で覚えて歌うとき、股が広がらないよう、無意識に「ラ」を「ソ」に下げて歌ってしまうのだ。
口ずさみながら、彼も迷ったことだろう。しかし最終的には、和声的にスマートな響きとなる、
…を、彼は選んだ。
音楽理論をかじった方なら分かるだろうが「ミ・レ・ラ」の響きは、並べなおすと「ミ・ラ・レ」つまり4度音程と4度音程が縦に並ぶ、風通しのいい和音なのだ。(ピンとこない方には、作曲者は違うけれどアニメ「風の谷のナウシカ」のテーマ曲がやはりこの技で作られていると述べるに留める)
歌いやすさか、聞く際の心地よさか… 鋭敏な和声耳を誇る坂本が後者を選んだのも、自然といえば自然なことではあったのだろう。
しかし――遺作となった「神山まるごと高専校歌」を、伴奏を弾きながら口ずさんでみると、違うものが浮かび上がってくる。
鍵盤楽器が弾ける方は、どうか実際に指を置いてみてほしい。上段(つまり歌の旋律)の音はどれも白鍵オンリーで弾けるのに対し…
下段(伴奏)では、黒鍵(赤で括った音・B♭)が混ざっている。
続く小節では、再び黒鍵(赤で括った音)が混じり、それがやがて違う黒鍵(青で括った音)に入れ替わって、白鍵に戻る…
黒鍵が混じって、入れ替わって、いったん消えて、やがてまた混じりだす… この技は、坂本の多くの楽曲(というかほぼすべての楽曲)にみられるものだ。
ドレミファソラシの七音音階から、それとなく逸脱を仕掛けつつ、全体としては調性を保ち、やがてもとの七音音階に戻ってきて、その後再び調性がふわっと緩みだす…
彼は中学生の頃、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーの音楽と遭遇し、自我がとろけるような気持ちよさを感じたという。
いわゆる「調性の浮遊」だ。
坂本がロックスターに駆け上がるのを支えてきた、ある音楽家は「彼はいつも予想のつかない和声を繰り出してきて、ぼくらを驚かせた」の意の追悼を述べていたが、ドビュッシーが得意とした「調性の浮遊」という技をポップスに応用したものだと気づければ、彼の和声技法はくっきり見えてくる。
そろばんを子どもの頃に習った方は多いと思う。練習努力を続ければ、何十桁もの計算が、たった五つの珠の組み合わせで、数秒ないし十数秒で行えてしまう。
このマシンを使いこなすのに要るのは、「3+4」や「9-1」といった一桁の足し算引き算、それに九九の暗唱ぐらいで、あとは指の反射神経の練習を重ねればいい。
ちなみに「九九表」にあたるものが音楽にもある。時計と同じで、12等分の円形である。
「F」とか「B♭」などの文字について説明は省くが、これを使うと、ピアノの鍵盤をそろばんに見立てて、さまざまな音階にさっと曲を移調できるようになる。
以上のチャート図を頭に浮かべながら、彼の代表曲「戦メリ」や、155万枚売れた「エナジーフロー」や、YMO時代の編曲「ライディーン」などを、実際に鍵盤でゆっくり弾いていくと…
彼が鍵盤をそろばんに見立てて、指先で音楽的演算を行いながら、作曲しているのが体感できる。
それからもう一つ、彼の作曲を貫く特徴として、左利きのピアニストであることが挙げられる。
左利きの彼は、左手つまり和声側の手で曲を組み立てていて、右手はそれに従属するように回っている。さらには歌が下手な(それに活舌が悪い)ぶん、その右手が奏でる旋律は、美しく、リリカルではあるけれど、どこか歌いにくい。
先日(2024年4月7日、17日再放送)NHK特番「Last Days 坂本龍一 最期の日々」で、彼の亡くなる二日前の様子が映しだされた。癌の転移で肺がぼろぼろになり、呼吸マスクをつけて病床に横たわりながら、それでもなおオーケストラ演奏会(彼が2013年より音楽監督と指導を行ってきた、東日本大震災被災三県の子たちによる楽団)の生中継に見入り、自ら指揮するかのように腕を動かしていた。
ああなるほど、と思った。彼はこの二か月前(2023年1月)に肺炎をおこし、2月に胸に穴を開けて肺に直接酸素を送るようになって、3月に呼吸困難で緊急入院し、抗体治療という最後の望みも叶いそうにないと判断して、終末治療に切り替えていた。くだんの校歌の作曲が、いつ頃まで続けられたのかはわからないが、歌詞に曲を付けていく際に、おそらく彼は声にだして歌っていない。もはや歌う体力がなくなっていたのだ。
2023年3月28日午前深夜、亡くなる一時間前、昏睡状態のなか、坂本の指は動き続けていた。窓の外から聞こえてくる雨音とともに、その指が奏でていたのは、バッハか、ドビュッシーか、それとも新曲だったのか、それともくだんの校歌を、呼吸マスクごしに、指で歌いなおしていたのだろうか。
♪とわに時を流れ 旅続ける雫(しずく)――
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久美 薫
翻訳者・文筆家。『ミッキーマウスのストライキ!アメリカアニメ労働運動100年史』(トム・シート著)ほか訳書多数。最新訳書は『中学英語を、コロナ禍の日本で教えてみたら』(キャサリン・M・エルフバーグ著)。