イスラエル系のドイツ人哲学者オムリ・ベーム氏(現ニューヨーク社会調査ニュー・スクール准教授)は7日、ウィーンのユダヤ広場のホロコースト記念碑の前でスピーチし、「人間の尊厳を守りたい者は、そのことを国家主義の枠組みで行うことができない」と語り、イスラエルに「国家主義の克服」を訴えた。それに対し、ウィーンのイスラエル共同体(IKG)は「ホロコースト記念碑の前で反シオニズム、ひいては反ユダヤ主義を標榜することは許せない」と非難し、主催者側にベーム氏を招いたことを批判した。
ベーム氏は著書「Radikaler Universalismus.Jenseits von Identitat」(急進的な普遍主義、アイデンティティーを越えて)の中で、アイデンティティーに代わって、カントが主張した道徳法則について‘自身の義務と考える自由を有し、それゆえにわれわれは責任を担っているという普遍主義”を主張している。同氏は「プライベートなアイデンティティーを最高の価値に置くのではなく、“わたしたちのアイデンティティー”の世界を越えたところにある法則、われわれは平等に創造された存在であるという絶対的な真理のもとで考えるべきだ。そうなれば、他国を支配したり、植民地化し、奴隷にするといったことはできない」という“急進的な普遍主義”を提唱してきた。
ベーム氏の主張がなぜ一部のユダヤ人知識人、政治家には反シオニズムであり、反ユダヤ主義と受け取られるのだろうか。イスラエルの建国の話を思い出せば理解できるかもしれない。ユダヤ民族が神の約束の地パレスチナで民族独自の国家を建設する運動はシオニズム運動と呼ばれ、イスラエル建国の神話となってきた。それに対し、ベーム氏の主張はナショナル・ソブリンティの概念から離れなければならないというのだ。それはイスラエルの建国神話の否定を意味する。ベーム氏は「ヨーロッパへの演説」(「歴史の影、現在の幽霊:中東戦争とヨーロッパの課題」)の中で、「自分自身の神話から離れ、自分自身の普遍的な価値観を自らの歴史の重荷に対して擁護するように」と求めたのだ。
ベーム氏はユダヤ民族のホロコーストの経験からイスラエルの建国への歴史に目を向け、「理想に自らを委ねるからには、歴史を尊重しなければならない。しかし、その理想は神話に堕ちることがあり、特に『国家の神話』となってしまう。現在、右派政権が国家の神話に取り組んでいるときに、歴史に結びつく理想を再び高く持ち上げなければならない。ヨーロッパが人間の尊厳は侵害されないと宣言するならば、それは自らの歴史とその歴史の過ちの背景を考えながら行わなければならない。なぜなら、人間の尊厳は侵害されないという言葉も、すぐに神話に変わる可能性があるからだ」という。
ベーム氏によれば、欧州連合(EU)は、大帝国の終焉後の世界に何が可能かという問いに対する唯一の生産的な回答だったという。国家の主権ではなく、その克服が欧州の使命というのだ。
重要な問題は、欧州の国家主権の克服の教訓が、欧州の歴史の犠牲者、具体的にはユダヤ人やホロコーストにも適用可能かどうかだ。なぜなら、犠牲者の教訓によれば、体系的な迫害や殺人から逃れることができたのは主権のある国家だけだというからだ。しかし歴史的経験からイスラエルの憲法が最初に考慮すべきは、ユダヤ民族の主権ではなく普遍的な人権であるべきだとベーム氏は主張しているわけだ。
ベーム氏は5日、オーストリア国営放送とのインタビューで、「私はホロコーストの歴史とそれを克服してきたことに対する尊敬の念に深く関わっているが、私たちは時々それを誤った目的のために濫用する形式を開発してきたのではないか、と思っている」という。「イスラエルの文脈に後期植民地主義の考え方を導入している」という批判に対しては、「私はポスト植民地主義の考え方に対する熱心な反対者だ」と説明している。
現実の中東問題の行方については、「現時点では想像するのが難しいかもしれないが、イスラエルとパレスチナの連邦国家によってのみ解決できる。二国家解決はさまざまな理由から現実的ではない」と主張し、同時に、「私は、私が支持する連邦の方向性に対する疑念を理解している。昨年10月7日以降、状況は耐えがたいものになっているからだ」と述べている。
ベーム氏は2020年に発表したエッセイ集「イスラエル―ユートピア」の中で、ユダヤ国家と自由主義的民主主義との間に著しい矛盾を感じていると吐露している。ベーム氏は「民族的に中立的な国家」のビジョンを支持しており、それによってシオニズムの運動を克服することが出来ると信じているのだ。
ベーム氏が指摘するように、昨年10月7日のハマスの奇襲テロ以来、イスラエルとパレスチナの2国家解決は益々非現実的となったが、同時に、同氏が提案するイスラエル連邦国家構想に対しても批判がある。7日のユダヤ広場でのベーム氏の演説に対するイスラエル共同体からの抵抗からもそれが伺える。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年5月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。