私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は「出来た人」ということで、「世に処して活動する人々は、どんなに忙しくとも、その風格に何処か明るく、静かな趣(おもむき)がなければならぬ。それでこそ所謂(いわゆる)出来た人である。がさつはいけない」と述べておられます。
此の言に対しては以前Twitterを見ていたところ、高橋大輔(尾崎財団&安岡財団&陸修偕行社)さんが次のように言われていました――自分は全然できた人じゃない、それでも「がさつはいけない」この感覚はよくわかる。時にはなりふり構わぬ場面が出て来るとしても、基本動作においては、やはりがさつはいけない。
以下私見を簡潔に申し上げれば、ある面で「がさつはいけない」というのはその通りだと思います。国語辞書を見ますと、がさつとは「細かいところまで気が回らず、言葉や動作が荒っぽくて落ち着きのないさま」と書かれています。これ正に「静かな趣」とは正反対の状況であり、上記高橋さんも指摘される通りだと思います。
当ブログ「北尾吉孝日記」で、明代の学者・崔後渠(さいこうきょ)が作った下記「六然訓:りくぜんくん」を御紹介したことがあります。
- 自處超然(ちょうぜん)自分自身に関してはいっこう物に囚われないようにする。
- 處人藹然(あいぜん)人に接して相手を楽しませ心地良くさせる。
- 有事斬然(ざんぜん)事があるときはぐずぐずしないで活発にやる。
- 無事澄然(ちょうぜん)事なきときは水のように澄んだ気でおる。
- 得意澹然(たんぜん)得意なときは淡々とあっさりしておる。
- 失意泰然(たいぜん)失意のときは泰然自若としておる。
常時、何事において落ち着きがなければなりません。出来た人は「余裕が無い」「騒がしい」といったことはまずないでしょう。やはり出来た人というのは見るからに風格があり、何でも受け入れるような受容性ある人物ということではないかと思います。
安岡先生も座右の銘にされていた「六中観:りくちゅうかん…忙中閑有り。苦中楽有り。死中活有り。壺中天有り。意中人有り。腹中書有り」という言葉の第一に、「忙中閑有り」とあります。出来た人たるべく我々は、どんなに忙しくとも自分で「閑」を見出すことが重要であり、静寂に心を休め瞑想に耽りながら胆力を養って行くことも必要だと思います。
ある程度の年輪(…多年にわたり積み重ねられてきた経験)を経て、ある種の達観や諦念の類ではありませんが、何事も天に任せるよう天の意思を淡々と受け入れて行けば良いでしょう。そうして「任天」の境に心身を置くような人物も、出来た人と言えるかもしれませんね。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年5月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。