広島と長崎に米国が落とした原爆は人種差別から生まれたものだ。米国人は日本そして日本人を蔑視していた。原爆の投下は戦争終結を早めるためだったというのは、当時の米国政府が生み出した飽くまでこじつけだ。
なぜドイツに落とさなかったのか? 日本人対し人種差別と、また原爆の威力を試すためだった。日本人がモルモットにされたということだ。
米国政府は日本が日露戦争で勝利して以来、日本を敵国とみなすようになっていた。だから、それ以後の米国はアジアにおける日本の影響力の拡大を阻止し、アジア支配でヨーロッパに遅れをとった米国がその為にも邪魔になった存在が日本であった。
マッカーサーもアイゼンハワーも原爆投下には反対していた
ルーズベルト大統領の政権下で1941年10月に原爆開発への方針が決定した。マンハッタン計画と呼ばれるものだ。1944年には原爆を使用できることを米国は確実にしていた。だから、1944年9月のルーズベルト大統領とチャーチル首相のニューヨークでの首脳会談で両者は日本への原爆投下の意向が確認された(ハイドパーク協定)。
それは既に専門筋の間では公になっており、原子力は平和利用にだけ使用すべきだという意見が出るようになっていた。1945年6月の大統領諮問委員会でも都市への原爆投下に反対し、砂漠等で投下してその影響力を試すべきだという報告も出されていた。
ところが、その前の1945年4月12日にルーズベルトが脳卒中で急死。その後副大統領のトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトが大統領が政権を続けていれば、その後の運命は変わっていたかもしれない。即ち、原爆の投下を最後の段階になって中止していたかもしれないという意味でだ。
また1945年6月30日にはマッカーサー将軍、ニミッツ提督らが原爆投下に反対の意見を述べている。更に、7月20日にはアイゼンハワー将軍もトルーマン大統領に原爆投下を否定すべきだと進言していた。というのも、日本が崩壊寸前だという認識で米国の軍部首脳は共通した認識をもっていたからだ。
大統領付きのウイリアム・レーリヒ提督も戦闘能力をほぼ失っている日本に上陸の為の作戦さえ必要ないと考えていた。実際、当時の鈴木貫太郎の内閣は終戦の切っ掛けを掴むべき模索していた状態だった。
更に、明らかなのはトルーマン大統領でさえも日本が降伏するのは間近だというのを知っていた。
ところが、マンハッタン計画を推し進めて来たグループは多額に資金を投じて来た原爆の開発による破壊威力を確認すべきだという圧力がトルーマン大統領に伸し掛かっていた。と同時にソ連が日本への侵略を狙っていることに威嚇する必要もあった。
そこで原爆を投下させるための口実を作る必要があった。それが日本を降伏させるためには上陸作戦が必要であると説いて、その為にアメリカ兵が50万人が犠牲になる可能性があるとし、彼ら兵士を犠牲にさせないために原爆の投下を正当化させたというわけである。
しかし、当時の米国の参謀本部でも日本に仮に上陸するとしても数万の兵士で充分だと踏んでいた。
この結論の背後にあるのは、1945年3月に東京、名古屋、大阪、神戸と大空襲を実施して日本にはもう戦闘能力は無いというのが明らかにされていたからだ。例えば、東京での9日と10日の二日間の空爆で10万人近い死者が出ていた。その大半は非戦闘員だった。これも原爆投下と同様に米国によるホロコーストと見做されて当然の行為だ。
更に、1945年5月に原爆投下を8月に予定した。その為には日本の降伏を遅らせる必要があった。米軍の沖縄上陸は日本の降伏を遅らせる為の手段であったともされている。
原爆投下は17発も用意されていた
米国が如何に日本を蔑視していたかという表れのひとつに、原爆投下の1号を歴史の遺産が多くある京都に落とすことを決めていたのである。それを当時のスチムソン陸軍長官が古都への投下に強く反対。歴史文化財の保護と日本国民からの米国への反感を避けようとしたからである。それに代わって長崎が選ばれた。結局、標的となったのは原爆の被爆効果が分かり易い平地の広い広島、横浜、小倉、長崎となった。
広島に投下した8月6日の後は11日に小倉が標的とされたが、当日は曇りと雨という予報で投下の日を前に進めて9日とした。当日小倉が雲を覆われ、その次に向かった先が長崎だったというわけだ。広島はウラン原爆、長崎はプルトニウム原爆。結局、1999年までにおよそ30万人が原爆の影響で死亡している。筆者の叔母二人(親父の妹、当時16歳と18歳)も犠牲者となった。当日家を早朝に出たまま帰らぬ人となった。また筆者のお袋も被爆者だった。お袋は爆心地から少し離れていたので直接の被害からは免れ93歳で亡くなった。しかし、当時の様子は鮮明に記憶していた。また、筆者の小学校の5-6年生だったか、クラスメートの3分の1は被爆者の子供だった。
相変わらず米国の見解は今も終戦を早めるためと米兵の犠牲をさけるためとしている
米国は今も原爆投下は日本の降伏を早め、米国兵の犠牲を避ける意味だとしている。が、これは表向きの理由だ。当時のトルーマン大統領や軍の中枢部は原爆の投下は必要ではないという見解に達していた。にも拘らず、原爆を投下した。原爆の破壊威力を確認するためだ。しかも、ドイツではなく日本が選ばれた。
そこにはドイツは欧米人として米国と同類、一方の日本は蔑視されいたアジア人だ。しかも、それまで米国が受けた損害への恨みもある。だから報復手段して原爆を投下したというわけである。その報復の延長が東京裁判だ。勝者が敗者を裁くなど中立性のない全く違法裁判であった。しかも、米国の残虐性は米国は全部で17発の原爆を日本に投下すべく用意していたということで裏打ちされる。
日本はこれまで米国に対し原爆投下について謝罪を求めたことはない。勿論、米国はそれを認めることは絶対にない。しかし、少なくとも当時の真実を少しでも明かす意味で謝罪を求めるべきである。しかも、岸田首相は広島市出身の議員だ。勇気をもって米国に謝罪を求めるべきだと筆者は思う。それで米国が憤慨しても、そうだからといって米国と日本の関係が崩れることない。
トルーマンのアメリカ国民に対する背信については以下の書籍で触れられています。(編集部)