『論語』に、「巧言、令色、足恭(すうきょう)なるは、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず、丘も亦(また)これを恥ず・・・人に対して御世辞を並べ、上辺の愛嬌を振り撒き、過ぎた恭(うやうや)しさを示すのは恥ずべきことである」(公冶長第五の二十五)とか、「巧言令色、鮮(すく)なし仁」(陽貨第十七の十七)、「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し」(子路第十三の二十七)といった孔子の言がありますが、愛想の良い顔付きには気を付けるべきでしょう――上記は当ブログ「北尾吉孝日記」で以前、『人を顔に見る?』という中で述べた結語です。
上記の章句「公冶長第五の二十五」は、「怨みを匿(かく)して其の人を友とするは、左丘明これを恥ず、丘も亦これを恥ず」と続きます。即ち左丘明も孔子も、「怨恨を隠して表面上友好的に付き合うの」も、恥ずべきこととしています。我々の日常では、自然と仕事や日々の生活を通じて他の人との付き合いは増えて行くものです。その中には、時に怨恨を抱いて近付いて来る人もいるでしょう。「清濁併せ呑む」ことも時に必要かもしれませんが、大体その場合は懐疑的な付き合いにならざるを得ないのではないかと思います。
例えば昔の仇討ちという公認制度のように怨むべき対象が明確であれば別ですが、その人を怨むに自分では確信を有しているつもりでも、それが誤解に基づく可能性も往々にしてあります。「衆これを悪(にく)むも必ず察し、衆これを好むも必ず察す・・・多くの人が憎んで嫌がっているような人でも必ず自分自身で確かめるべきであるし、反対に、誰もが好いているような人でも必ず自分の目で確かめなくてはいけない」(衛霊公第十五の二十八)――誤解ではないということを証明すべく取り敢えず友好的に近付いてみる、といったことは有り得るのかもしれません。
『論語』に、「直(なお)きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」(憲問第十四の三十六)とあります。「怨みに報ゆるに徳を以てす」という老子流の考え方に対し、孔子は怨みや悪には直(ちょく:公平公正)を以て報いるべきと言っています。自らはきちっとした形をとっているにも拘らず、人から怨まれたり悪意を持って攻撃されたりした場合には、公平公正に対応すべし、というのが孔子の基本的な考え方であります。
何を以て人を罰しその関係性を疎にして行くか、何を以て人を許しその関係性を再構築して行くか、そういった類の判断は大変難しい問題です。先ず公平公正に判断するということでなければならないと思います。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2024年6月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。