東京都知事とポピュリズム --- 田中 奏歌

東京都知事選について(不謹慎な言い方だが)すごいことがいろいろ起こっているらしい。静岡県知事選も悩ましかったが、都知事選は別の観点で悩ましいのかなあと他人事ながら思う。

ポスター掲示板の設置が間に合わず透明シートで代用、多数の候補者を出した政党が掲示板を私物化し権利を売る、裸のポスターを貼るなどなどやりたい放題である。選挙公報も見て愕然とした。今回はいくら何でもひどすぎる。

ではあるが、この私の投稿は、今回のグダグダについてのことではなく、それ以前のタイプの都知事選の在り方についての話である。泡沫候補の話ではなく、当選圏にある、ある意味まともな候補者についての知事選の話で、こちらについての違和感を少しつづってみたい。

今回のような状況が発覚する前に、都知事選について、アゴラで「都知事選は罰ゲームだ」という表現があった。書いた人も今回のような状況は想定していなかったと思うが、私は、このときこの表現を見てなるほどね、と思った。同時に、過去の知事選とその結果を見ると、この罰ゲームの状況は、候補者だけが悪いのではなく、そういう選挙の構図・流れは30年近く続いていて、それを作ったのは他でもない、東京都民自身で、もっといえば自業自得と言えなくのないのでは?とも考えた。

以下の話は、これがだめで認めるべきではない、というのではないし、解決策を持ち合わせているわけでもないが、都民の皆さんにも少し考えていただけたらと思う次第である。

日本記者クラブ主催の公開討論会
小池百合子都知事Facebookより

1995年の青島幸雄氏以降の当選者と得票は以下のとおり(かっこの中の数字は得票数)であり、900~1100万人の有権者に対し、各知事は最低でも170万票近くを得て当選している。青島氏以降の9回の選挙のうち6回は10名以上の候補者が参戦している(青島氏は8名、石原氏2期目は5名、猪瀬氏は9名の候補者)。

  • 1995年~ 青島幸雄氏(1期)(170万票)
  • 1999年~ 石原慎太郎氏(4期)(各期166、309、281、262万票)
    ※1999年(1期目) 3位:舛添要一氏84万票、2011年年(4期目)次点:東国原英夫氏169万票
  • 2012年~ 猪瀬直樹氏(1年2ケ月)(434万票)
  • 2014年~ 舛添要一氏(1年5ケ月)(211万票)
  • 2016年~ 小池百合子氏(2期)(各期291、366万票)
    ※2016年(1期目)3位:鳥越俊太郎氏135万票、2020年(2期目)3位:山本太郎氏65万票

これを見て何か気づかないだろうか?

そう、※印で補足したのでお気づきかと思うが、歴代の東京都の知事を見てみると、1995年の青島幸雄氏以降、メディアに関係ない人は知事になったことがないし、しかもメディア関係者はほとんどが高得票を得ているのである。舛添要一氏は学者ではないか、とおっしゃるかもしれないが、立候補時点でマスコミのトーク番組の寵児であり、ほとんどメディア関係者と言っても語弊はないであろう。

しかも、青島幸雄氏の前の知事である鈴木俊一氏の最後の選挙の時をみても、次点はNHK出身の磯村尚徳氏であり、140万票を獲得している。今回の知事選の候補者も名前は避けるが、名前の出る最有力候補の複数名はメディア出身者であり他にもいる。

もう少し補足すると、1999年はメディア関係者2名で250万票、2011年は同じくメディア関係者2名で431万票、2016年は426万票、2020年は431万票、の得票である。実に有権者の5人に1人、時には4割がメディア関係者を選んだということになる。

これって普通に考えておかしくないだろうか?

確かに、上記の皆さんが必ずしもとんでもないわけではない。世の中にはメディア出身でも政界に長く籍を置き、それなりの成果を残された方も多いし、芸能界出身の客寄せパンダとして揶揄されながらも、立派な成績を残された政治家もいる。都知事でも複数期続ける人もいるので、ある意味適性のある方もいるのだろう。メディア出身者を差別しているつもりはない。今回の都知事選のメディア出身候補者の多くにも頑張っていただきたい。

・・・が、2世議員に対する違和感より違和感があるのは私だけであろうか。2世議員がいけないから政治家になってはいけない、というのが暴論であるのと同じく、メディア関係者だから政治家になっていけない・・・はずはない。ただ、単純に、違和感を感じるのである。

ここまでマスコミ関係者の知事が続くのはどうなんだろう。もっと強く言えばマスコミ関係者でなければ知事にはなれない、という東京の選挙はどうなんだろう。

たぶん、メディア関係者以外の候補者の中にも、政治に関心があり、政治家として活躍しそうな人は多いはずであるが、残念ながらそういう人は過去30年近く東京では知事になれなかったのである。

都民が候補者の業績をしっかり考えて、メディア関係者のほうを選んだのであればいいのだが、結局、得票数から見れば、メディアの露出度が当落を決める大きな要素であるというのが、東京のような都会の選挙の在り方に見える。

ちなみに参考までに東京に続く大都市・大阪はどうか。

1995年の横山ノック氏(2期各162、235万票)、2008年の橋下徹氏(183万票、この方も弁護士ではあるが、舛添氏と同じくマスコミの寵児であった)くらいで、東京に比べると見劣り(?)する。

これはどういうことであろうか。以下は勝手な推論である(きちんとしたデータは見つけられないが、東京・大阪・その他複数の田舎にも住んだことのある私の経験による勝手な推論である)。

実は、東京にメディア関係者以外の知事が出ない理由には、大きく二つの要素があると思っている。

まず第1に、有権者の情報入手の手段について、特に大都会においては、人々の交流や地元に密着した多様な情報源ではなく、画一的な最大多数を意識したマスコミによるものがより大きい、ということ。どちらかというと古いメディア出身の知事はこちらの影響がほとんどであったろう。

第2には、特に最近の社会全体に言えることではあるが、政治とのつながりが薄くなることで、政治に関心を持つ機会が減り、1つめのように情報をマスコミに頼る結果、扇情的な報道により、公を考えるより自分のことを考える人が都会に増えたからではないだろうか、ということである(もちろん、あくまで比較なので、田舎もこういう傾向はあるが都会はそれがもっと強いのかなと考えている)。

先日行われた静岡県知事選挙でも、大村氏の敗因の一つに、当選した鈴木氏に比べ知名度が低かったことが挙げられているが、静岡県知事選での知名度と東京都知事選の知名度は性質が異なる。

田舎ならば、自分たちの居住エリアに候補者やその支援者がおり、核家族化も都会ほどではないため、家族からの情報を含め、生活圏内の情報について、マスコミ以外から得る機会も多く、ある程度は候補者をイメージしやすい。

しかも、地方に住んだことのある人ならわかるが、田舎には地元に密着したテレビ・ラジオ番組・新聞も多くあり、そういうメディアにおいては候補者の情報も都会ほど画一的なものではない(大阪も住めばわかるが、かなり独特の地元に密着したTV番組やラジオ局が多い)。

こういうところでは、府政・県政における課題も多くは身近に感じるものも多いだろうし、身近に意見の衝突もあるだろう。ある意味、政治に対する関わりは、東京より強いような気がする。

静岡県知事選でも明確に表れたが、浜松と静岡の産業界の影響力は非常に強い。静岡県知事選における知名度とはこういったメディアの人気取りではない知名度であることに留意する必要がある。

しかし残念ながら東京のような都会では、政治的知見に対する評価は、大メディア以外ではほとんど得ることができない。その結果、情報の多くを既存の大メディアに頼るため、そういうマスコミに登場する候補者への親近感はとてつもなく大きいのではないか。

※ あくまで東京とその他の感覚的な比較であり、田舎でも近年はかなり都会化は進んでいることは承知しているし、メディアも従来のテレビ・ラジオ・新聞からネットに移行しつつあることも承知している。とはいえ、都会も田舎も、情報の入手先としては、ネットの威力は大きいものの、まだまだオールドメディア(とくにテレビ)の力は大きい(文化庁令和4年度「国語に関する世論調査」)。

マスコミが扇情的に取り上げることが多いことで、マスコミに好かれる、または嫌いだが面白おかしく取り上げやすい、いわゆる「目立つ人」が好感度や関心度も高くなる。このため、もともとマスコミで顔が売れているうえに、キャッチコピーのうまい小池氏や、はっきり物事をいう石原氏、舛添氏の人気が高かったのも頷ける。

マスコミを敵に回した瞬間、今まで「はっきり臆せず発言する」ことがもてはやされていた舛添氏は、同じ物言いをしても「上から目線の人」になってしまったのも道理であろう。

また、自分に関心のあること(・・・とマスコミに思わせられていること・・・かも)に対しては、公の理念より、自分たちの理念を優先する風潮が、近年ますます強くなっているような気がする。いわゆる「〇〇ファースト」がもてはやされるのもそのせいであろう。

リニアは駅のない静岡も通るし、東京には都民以外の多くが利用する駅が山ほどある。少なくとも都道府県の自治体レベルでは〇〇ファーストになりすぎるのは困る(市町村以下では事情が少し違う)のであるが、特に都会では田舎よりも〇〇ファーストが重視されるようである。

その結果、自分たちの利益に直結する耳障りのいい意見の候補者が好まれるのであろう。しかもマスコミは視聴率の取れる対立を軸とした扇情的な報道方法により、これを助長している。

意見が対立したものについては、都会であれ田舎であれ、こういった自分ファーストの傾向が大きいが、それでも意見の衝突を回避しようとする行動、すなわち共存を重視する行動は、都会に比べれば田舎の方がまだ少しは大きいように思う。

30年もちゃんと東京都が続いているのだから、「過去30年間の都政が、メディアにひっぱられた結果の、大衆の利益を安易に追求する、という悪い意味でのポピュリズムによるものであった・・・」とまでは言わないが、過去のこういったメディア関係者の得票や今回の知事選のグダグダぶりを見ると、衆愚政治に陥る危険性はなくならないような気がする。もちろんその傾向は都知事選だけではなく、国政選挙などでも同じではあるが、都知事選はその典型例であろう。

ここまで書いて、以前、投票率の向上についてアゴラに投稿した記事を思い出した。

選挙棄権者をゼロにする方法 --- 田中 奏歌
さて、7月の参議院選挙まであと1ケ月となった。 思えば40年ほど前、まだ学生の頃、今ほどではないが選挙の投票率が低いことはすでに問題になっていた。 当時は、選挙を棄権する人は現在の政治に批判的なサイレントマジョリティとし...

半分おふざけで書いた意見とはいえ、安易な投票率の向上策に警鐘を鳴らしたつもりのものでもあったが、もうすでに東京の有権者はとっくにこういう域に達してしまったのかもしれない。「考えない都民は投票には行くな」とまではいわないが、以前の投稿の最後の部分をここに再掲して論を閉じたい。

棄権者が多いことは恥ずかしいことであるけれども、考えない投票者を増やして国・地域が危うくなるような投票率の向上策は本当はよくないのだろう。

単に「選挙に行こう!」と広報してきちんと考えない投票者を増やすより、関心のある人だけの投票で満足することが実は正しいのではないか。その場合、国・地域を考えた人の投票結果を尊重して政治を行うのはやむを得ないことで、そのほうが、国民の幸せにつながるような気もしてきた。

衆愚政治にならず投票率を向上するために我々にできることは、選挙の意義を訴えるだけでなく各政党の政策をきちんと広報し、政治に真剣に興味を持った投票者を増やすことくらいしかないのだろうか。

田中 奏歌
某企業にて、数年間の海外駐在や医薬関係業界団体副事務局長としての出向を含め、経理・総務関係を中心に勤務。出身企業退職後は関係会社のガバナンスアドバイザーを経て、現在は隠居生活。