現代民主主義下の政治の劣化と、分断を超える人材育成

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都知事選にみる民主主義へのどうしようもない絶望

オリンピックにおける連日の日本選手の活躍の報に接し、文化・スポーツ面における我が国の世界的なプレゼンスの向上に喜びを隠せない毎日ではあるが、同時に、政治・経済面における凋落が相対的に何とも悲しく見える今日この頃でもある。

裏金問題などに端を発した政治不信から、岸田政権はリーダーシップを発揮するどころか支持率は低迷を続けていて自民党は解党的危機の中にあり、同時に野党にも勢いがない。景気も足踏みをつづけ、わが国の一人当たりGDPはG7でついに最下位となり、競争力ランキングでは、今や東南アジア諸国の後塵を拝している。

そんな中、私ならずとも、日本は終わった、と思わざるを得なかったのが東京都知事選を巡る喧噪である。改めて、この約1か月前の事象を私なりに分析してみたい。

社会に出てそれなりに仕事をしたことがある方々であれば、恐らく皆が抱いたであろう感情が「一体、誰に入れればいいのか?」という率直な気分だったのではないか。世界的に見れば、一流“国”に匹敵する存在感があるはずの東京都のトップを決める選挙がこれでいいのか、と。

正直、主要三候補と言われた小池百合子氏、石丸伸二氏、蓮舫氏のいずれも、知事になった後、主導的に組織を率いて、雄大な構想力に基づく政策を適切に立案し、着実に実現していくという姿が想像できない方々だからである。

裏を返して言えば、彼ら彼女らは、PRの人であり、選挙までの人であり、統合より分断を強調する人たちだと思わざるを得ない状況がある。

これは、元をただせば、メディアに踊らされてきた有権者たる我々の劣化が甚だしいという不都合な真実がベースにあるのではあるが、いずれにせよ、わが国の選挙は、極端なPR合戦の場になりつつある。

構造的に書けば、以下のようになる。

① PR合戦の片棒をかつぐメディアに踊らされるなどして、有権者が劣化し、自らの生活に関わる大事な選挙にも関わらず、候補者の当選後のパフォーマンスへの想像をすることなく、目先の感じの良さや人々の耳目を集める力(PR力)によって投票をしてしまう事態となっている。

言葉を変えれば、候補者たちが当選した後に「立派な構想を示して政策を立案したり、当該政策をしっかりとしたマネジメントの下で実現していったりする能力」を見極めて投票するのではなく、選挙戦で如何に目立っているか、短期的な鋭い訴えがあるか、主張がわかりやすいか、などの要素で各有権者は投票をしてしまうという事態に陥っている。

② そうなると、立候補者サイドとしては、どのようにして、選挙戦で有権者の注目を集めるか、ということが鍵になり、その際、最も有効な手が、いわゆる「バズる」(人々に広まる)ことを効率的・効果的に実施する、ということになる。当選後を見据えた真面目な公約づくりは相対的におろそかになる。

今回の都知事選でも、「切り抜き動画」が若い層を中心にかなり広まったと言われているが、如何に印象に残る言動を短く行い、それを更に切り取った動画などを人々の間に広めるか。それが選挙の勝敗の分かれ目となる。選挙後の構想より、選挙までのPRが益々重要になっている。

③ そうだとすると、有権者に対して、当該地位に就いたあとの政策構想力や立案力、その実現・実施力を訴えるよりも大事なことが「如何に目立つか」ということになる。そして、最も目立つ手段が、分かりやすい二項対立状況を設定し、自分を正義、相手を悪と規定して、敵を論難することになる。日本よりも、悪しき民主主義が「先行」してしまっているアメリカで特に如実だが、この手法が浸透すればするほど、社会の分断が深まるのは自明である。

つまりは、事後の政策実現力よりとにかく選挙戦でのPRが大事になってしまっていて、そのために、相手を論難して対立構造を明確化し、社会の分断を深める、ということが構造化・日常化してしまっているのだ。

そして、小池氏も、石丸氏も、蓮舫氏も、見事に「PR」の人を演じきった。というか、元々それを得意としている人たちが選挙に出て来た。PR合戦という意味では、最初の出馬時点のタイミング論や駆け引きなど、とても見ごたえのある選挙戦であったが、それは有権者にとって本質的メリットをもたらすものなのだろうか。

三者の真意はおそらく、残念ながら東京都を真剣に良くすることではない。この注目の選挙戦を通じて知名度を上げ、存在感を示し、別の形での自らのプレイアップを目指すことである。

いずれ国政に返り咲いて総理を目指したいという小池氏、知名度を上げて自ら市長をしていた安芸高田市のある広島県の来年の知事選などが本命であろう(元々都知事選で勝てるとは思っていなかったはずの)石丸氏、このところ落ち目で、参院選での得票の減少傾向などに焦りを感じ、知名度を上げて衆院選への鞍替えなどを考えていた蓮舫氏。

この三氏にとっては、今回の都知事選は、格好のPRの機会であり、その初期の目的は見事に達成されたと言っていいが、残念ながら、有権者たちは置いてきぼりだ。あたかも、お祭りの様相で、「選挙祭り」でどう目立つかが全てで、本当はそこが政策実現上肝心なはずの「宴の後」はほぼ関係がなくなってしまっている。

各地と都会の逆転現象/パブリックセクター全体の劣化

まだ、地方選挙においては、極端なPR合戦化が進んでいない面もあり、政策立案力、実行力・実現力に溢れた立派なリーダーが選出され、目を見張るような成果を収めている例も散見されるが、東京や横浜、大阪や名古屋などの大都市では、選挙は完全に極端なPR合戦となっており、選出される首長のレベルの低下が著しい。

かつては、こうした都市の首長は政策立案力、実現力に満ちた教養人が務めていたこともあったが、失礼を承知で言えば、最近は、謎な方が選出されたり、目立ったりするケースが激増してきているように思われる。

「当選してから実力を発揮するタイプ」は、得てしてPR力よりも、中身を重視してしまうため、メディアの存在感の大きい大都市での選挙では特にPR型の候補者に勝てなくなってきている。最近では、立候補することすらしない。こうして、「とても優秀な方」が田舎の知事や、地方都市の首長をつとめ、「一般企業であれば、すぐに馬脚が表れて通用しないであろう方々」が、何故か大都市の首長などを務める、という国家的に見た人材のリソース配分的には、逆転現象が生じている。

更に深刻なのは、こうした状況を見て、若い優秀層が、政治を目指さなくなり、また、政治家を支えて政策立案をしたり実現をしたりする公務員(官僚や地方公務員)を目指さなくなっていることである。もちろん、上記のような「政治祭り・PR合戦現象」だけが原因ではないが、この点も無視できない影響を持ち始めている。自分が支えたいとか仕えたいと思わない人のところで働きたいとは普通は思わない。

人材育成という最後の希望

そんな中、つい先日、千葉県印西市の市長選が行われた。青山社中リーダー塾出身で、青山社中での勤務経験を持つ29歳と39歳の候補者が激突した。私は、塾頭として、また、元雇用主として、両者の陣営の応援にかけつけたが、強調したのは、二人とも「選挙後の政策実現」を必死に考える候補者であり、また、市長をステップに国政に行くといった志望もなく、その地(印西)のために骨を埋める覚悟をもった候補者だということだ。

上述のとおり、現代の選挙では構造的に「悪しきPR合戦」「相手との差別化/誹謗中傷」そして、「そこから生まれる分断」がセットでついて来てしまうものだが、上記の塾生同士は、闘いながらも協力をうたい合っていた。どちらが勝っても分断ではなく、建設的な街づくりをしていこうと。

結果39歳の藤代健吾氏が見事当選を果たしたが、今後ともこうした人材育成に塾や事業を通じて務めてまいりたいと感じた次第だ。

地位を追い求めること、世間に訴求しやすいようにポジションを獲得すること以上に、人間にとって大事なことは「何をするか」である。地位がないと輝けない、ということではなく、どんな場所でも想像力・創造力を発揮していい仕事が出来る、虚栄心より野心(目立って“ちやほや”されることより、何を為すかということに注力する)という人材をこれからも輩出していきたい。

本当に大事なのは選挙までではなく、選挙後に、宴の後に、何をどう実現していくか、なのだと思う。