パリ五輪開会式が終わり、世界から集まったスポーツ選手の競技が始まったが、五輪開会式でのパフォーマンスについて、トルコのエルドアン大統領が1日、「不道徳な行為に怒りを感じた」とローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇との電話会談で語ったというニュースが流れてきた。パリ五輪開会式のパフォーマンスへの評価は、「素晴らしい」といった称賛から、エルドアン大統領のように「不道徳な内容」といった辛辣な批判まで分かれている。
特に、宗教界からドラッグクイーン(女装パフォーマー)やLGBTQ(性的少数者)らを多数起用した開会式のパフォーマンスに違和感を感じる声が聞かれる。レオナルド・ダ・ビンチが描いたイエス・キリストの「最後の晩餐」のパロディーはキリスト教会、保守派から強い反発を招いた。フランスのローマ・カトリック教会司教会議は「開会式では、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画を基にした『最後の晩餐』をワンシーンで再現するアーティストたちが登場した。しかし、このシーンは、ドラッグクイーン、ほぼ裸の歌手、その他のパフォーマーによって、トランスジェンダーのパーティーやファッションショーにパロディ化された」と述べている。
それに対し、パリ五輪開会式の芸術監督を務めた舞台演出家のトマ・ジョリー氏は「テーマは世界の多様性と異質性を称えることにあった」と指摘し、批判に反論している、といった具合だ。
エルドアン大統領の発言を聞いて思い出した。パリの風刺週刊誌「シャルリー・エブド」がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことから、イスラム過激派テロの襲撃テロを誘発したが、マクロン仏大統領は当時、「人には冒涜する自由がある」と語り、トルコのエルドアン大統領から「「彼(マクロン大統領)は今、何をしてるのか知っているのだろうか。世界のイスラム教徒を侮辱し、イスラム分離主義として酷評し、イスラム教を迫害している。彼は宗教の自由を理解していない」と指摘し、「彼は精神的治療を受ける必要がある」と罵倒したことがあった。
エルドアン大統領がフランシスコ教皇と電話会談したのは、神聖なもの、信仰への冒涜に対して宗教指導者に連帯を呼び掛ける狙いがあったからだろう。イスラム教創設者ムハンマドへの風刺、キリスト教のイエスへの中傷、誹謗など、世俗化した欧米社会では、宗教者の信仰心を冒涜する言動が日常茶飯事となってきている。
「政教分離」(ライシテ)を標榜し、人道主義を賛美する傾向の強いフランスでは大統領を筆頭に、人の信仰心を冒涜する自由があると受け取られ、それを称賛するような傾向すら強まってきている。
ロシアで2012年2月、モスクワ市内の救世主キリスト大寺院の祭壇前でライブを行い、覆面をかぶって踊りながら「マリア様、プーチンを追放して!」と歌った女性パンク・ロックバンド「プッシー・ライオット」の3人のメンバが拘束されたことがあった。主要な拘束理由は、独裁者プーチン大統領への批判ではなく、教会の祭壇の前で行った行為が宗教施設への冒涜行為とみなされたからだ。ロシアでも冒涜行為は犯罪だ。
それでは、「冒涜」とは何を意味するのか。神聖なもの、清浄なものへの不道徳的な言動と受け取れる。具体的には、神、仏など神聖な宗教人物、信仰への中傷、誹謗を意味する。ちなみに、他宗派の宗教心を冒涜しない自制は「言論の自由」の制限を意味しない。
一方、「人には冒涜する自由(権利)がある」というマクロン大統領の発言はフランス革命以来の人道主義の極致を行く考えではないか。神を冒涜する自由ですら許されるといった、無節制な思想だ。「冒涜」という言葉は死語となっている。換言すれば、神がいなければ、全てが許されるという世界観だ。
トマ・ジョリー氏にとって「多様性と異質性への称賛」が、エルドアン氏にとって、「表現の自由と寛容という名目で、人間のもつ神聖なものへの信仰心、帰依を踏みにじっている」という批判になるわけだ。エルドアン氏がフランスの不道徳な行動に対して他の宗教指導者に連帯を呼び掛けたことは評価される。宗教者は結束して、「信教の自由」を守ると共に、神聖な宗教的な内容への冒涜は許されない、という共通の認識が必要だろう。
パリ五輪大会の開会式で華やかなイルミネーション、光の洪水の中、神聖なものへの蔑視、冒涜が堂々と行われていた。そしてそれを賛美する声すら聞かれたのだ(「人には『冒涜する自由』があるか」2020年09月5日参考)。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年8月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。