ウクライナ正教会(UOC)活動禁止で考える政教分離の原則と戦争のイデオロギー性

ウクライナのゼレンスキー大統領が、独立記念日の8月24日に、ロシア正教会と歴史的な結びつきを持つウクライナ正教会(UOC)の活動を禁止するための法律に署名をした。「9カ月以内にロシアとのつながりを絶たなければ」という猶予があるようだが、UOCが関係を完全に断絶すること(を証明すること)は難しいとみなされている。

ウクライナの首都キーウにあるキーウ・ペチェールシク大修道院
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UOCは、ロシアのウクライナ侵略を支持しているモスクワ総主教庁と結びついていた。ロシアのプロパガンダを広めているという理由で、取り締まり対象になり、UOCの聖職者50人近くがすでに起訴され、26人が量刑を言い渡されているという。

国家保安上の理由で、聖職者を逮捕して処罰することだけでも、それなりに大きな意味があるだろう。今回は教会組織そのものを解散させることになるので、さらに大きな決定である。

従来から、キーウのウクライナ政府は「ネオナチ」の「バンデラ主義者」で、文化的・宗教的に偏狭で迫害主義的である、とロシアは主張してきた。今回の措置は、その主張を裏付けるものだと、ロシア政府、あるいはウクライナに批判的な言論人たちは、宣伝している。

しかしウクライナ政府から見れば、宗教活動を隠れ蓑にして、国家の転覆を目指すロシアの全面侵攻を支援する活動をすることは許されない。UOCの存続は、信教の自由を認めてもなお認めることができない、国家保安上の脅威だと認識された。

ウクライナでは、独立以来、正教会の諸派が乱立する状態にあった。しかし2018年12月に、ウクライナ最大教派であったウクライナ正教会・キエフ総主教庁と、少数教派であったウクライナ独立正教会が統合し、新たな「ウクライナ正教会」を作り出した。統合に参画しなかった対立教派がUOCだ。

2018年に設立された統合ウクライナ正教会は、ロシアからのウクライナの独立を確立する宗派としての意味を持った。そしてロシアとの結びつきを強く持つUOCと対立した。

宗教の話は、複雑かつ繊細だ。国際関係学の学者などが云々するような事柄でもないようにも思える。しかしウクライナにおける正教会の位置づけは、実際には非常に政治的な問題であり、国際的な問題である。

ウクライナは、独立以来、東部住民を中心にしたロシアに親和的な国民層と、ロシアからの独立を重視する国民層とのせめぎあいを前提にして、国家運営がなされてきた。大統領も、親ロシア派と親欧米派で持ち回りのようになっていた。

この均衡が崩れたのが、2014年のマイダン革命のときであった。過敏な反応を示したロシアによるクリミア併合と、東部分離独立運動を理由にしてロシア軍も介入したドンバス戦争の衝撃を通じて、ウライナの中央政府は、急速に親EU・親米の路線で固まっていく。

その政治のうねりの中で、2018年の統合ウクライナ正教会の発足と、それに伴うUOCの疎外が起こった。そうだとすれば、2022年ロシアの全面侵攻以降に、UOCをさらに阻害していく傾向が強まったのは、不可避的であった。

他方において、この問題は、果たしてウクライナは、どこまでロシア的なものを排除し、どのように純粋にウクライナ的なものを規定して、国家アイデンティティを確立していくのか、という深い問題と結びついている。つまりウクライナにとっても最も望ましい「政教分離」原則の適用の仕方はどのようなものか、という難しい問題と結びついている。

問題を整理するために、日本国憲法を参照してみよう。日本国憲法は、第20条で、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と定める。日本では、国家と宗教の関係が血みどろの戦争と結びついた歴史があまりないため、理解が形式的になりがちである。そのため、憲法20条を丸ごと「政教分離原則」と理解する人も少なくない。

しかし厳密には、「信教の自由」と「政教分離」は、別の事柄である。「政教分離(Separation of Church and State)」の「教」は、「信教」ではなく、「教会」を指している。「政教分離」原則が、欧州で生まれて発展した概念である以上、この概念規定を基準にするのは自然なことである。信教の自由は、普遍的な原則である。その一方で、国家と教会の分離の仕方には、各国の実情に応じた違いがある。

国家が教会に関する事柄を制度化したら、それだけで信教の自由の侵害になるわけではない。血みどろの根深い宗教戦争の歴史をもつ欧州諸国はいずれも、信教の自由を原則としながら、個別的な事情に応じた政教分離原則の適用を模索してきた。重要なのは、その国家にとって、最も望ましい政教分離のあり方は、どのようなものか、ということである。

今回のウクライナの措置は、理論上は「信教の自由」という自由主義の根本原則の一つに自動的に関わるものだとまでは言えない。ただし、「国家と教会の関係」に一定の枠組みをはめたものではあるだろう。国家がロシアと結びつきのある教会を禁止する行為によって、結果として、「ロシアと関係を持たない」教会だけを、国家が認定する教会とする措置になっている。そこが論点である。

たとえば、ウクライナは現在、クリミアを含めたロシア占領全地域の奪還を目指している。奪還が果たされれば、ウクライナの法律を適用していくことになる。つまり占領地を解放するたびに、ロシアによる占領に協力した者を逮捕し、そしてUOCを解散させていく、ということだ。

独立記念日にあわせた演説で、ゼレンスキー大統領は次のように述べた。

包括的な独立を守り抜くには、その1つ1つを達成せねばならない。経済的独立も、エネルギー面の独立も、ウクライナの人々の精神面の独立もだ。ウクライナの正教会は、今日、モスクワの悪魔からの解放へと一歩進んだ。それは、ウクライナを裏切ったことで、独立したウクライナの勲章を身に付けることは今後二度とない者たちに関しての正義の実現でもある。

今回の措置を理由に、一方的にウクライナ政府を偏狭なネオナチだと糾弾することはできない。しかし一切全くイデオロギー的要素がない、と考えることも、正しくないように思われる。

ウクライナ政府は、いわばウクライナとはロシア的なものとは完全に切り離された何ものかだ、と宣言している。今回の措置は、ロシア・ウクライナ戦争が、高度に思想的あるいはイデオロギー的な戦争になっていることを証左する事件だと考えるべきであるように思われる。