候補者乱立の功罪:自民党総裁選などから考える

1. 企業や学校は何故、社長や校長を選挙で選ばないのか

小さい頃、不思議に思ったことがある。

どうして、総理大臣(や政治家)は選挙で選ばれるのに、社長は選挙で選ばれないのか。

学校で、学級委員選挙や生徒会役員の選挙をする際などに、「一人一票で公平に、民主的に自分たちの代表を選挙で選ぶことは良いことだ」と先生たちは言う。確かにそうなのかもしれない。しかし、絶対的にそうであるならば、なぜ、企業では、社員たち、或いは株主たちによる選挙で社長を選ばないのか。

後に、ごくわずかな例外として、社長を選挙で選ぶ会社や、社長ではないが店長を、立候補制で選挙によって選ぶ会社などを知るに至ったが、読者諸賢もご案内のようにそんな会社は、基本的には存在しない。もちろん、取締役会や株主総会での承認などは必要なので、「民主的」ではあるのだが、とはいえ、選挙で社長やCEOを選ぶというところまで「民主的な」企業は皆無に近い。

民主的にトップを選ぶことは素晴らしいと言って生徒を指導している先生たちですら、学校の校長を選挙で選んでいない。各学年の担任などの数多の先生たちの中から立候補者を募り、選挙をして、校長を選べば良いではないか。

朝礼でつまらない長い話ばかりをする老いぼれ校長より、隣のクラスの話が面白く生徒に人気のあの担任が校長をやった方が、学校が面白く活性化するような気がする。学年主任だって選挙で選べば良い。5年生の生徒みんなで投票すれば、1組の小難しい数学専門の担任ではなく、隣のクラスの先生が主任になるのは間違いない。かつての私はそんなことをぼんやり思っていた。

実はこの話を広げていくと、民主主義と共和主義の本質的違いや、議員内閣制か大統領制かによる正当性の話など、我々が高校や大学などで学ぶ現代社会や政治の根幹にかかわる議論となり、社会を考える大事なポイントを多々含んでいるのだが、当時の私の周りの大人たちはそこまでは教えてくれなかった。

ここでは紙幅の関係もあり、深く(広く)は立ち入らない。ただ、一点だけ重要なポイントを指摘しておくと、企業でも学校でも何でも良いのだが、およそ政治行政関連以外の組織が、そのトップの選定を選挙で行わない大きな理由の一つは、選挙までのプロセスより、選挙の後の運営の方が遥かに重要だということを構成員が意識的、或いは無意識的に良く理解しているということである。

リーダーシップ論の世界では、これをelected leader(選挙で選ばれるリーダー)やappointed leader((前任者などに)任命されるリーダー)などと分類して、その功罪を比較検討するのだが、前者の最大のデメリットは、分断の促進である。

つまり、例えば企業や学校で社長や校長を選挙で選ぶとなると、投票日までの間、候補者Aと候補者Bが、双方の「派閥」などを通じて、激しい票取り合戦を演じ、時に現金やらポストの約束などが飛び交う形で、血みどろの争いを繰り広げることとなる。

結果、候補者Aが社長や校長になったとすると、候補者B側はどうなるであろうか。一応、どの候補者も建前では、「選挙が終わればノーサイド」「私は、AとB双方の陣営にとってのトップになるのであって、公平公正に組織を運営する」と言うに決まっているが、また、負けた側も、勝った側に全面的に協力する、と言うが、実際は簡単にはそうならないのは火を見るより明らかだ。

Aが勝てば、A派閥の人を要職につけるに決まっているのであって、また、BやB派の人たちは、Aのスキャンダル探しやそれによる失脚を必死に画策することになる。自然の摂理だ。

もちろん、選挙をしようがしまいが、A派閥、B派閥のようなグループは組織が大きくなればなるほど当然に存在することとなる。そしてそれらは選挙の有無に関わらず、時に対立する。

しかし、選挙という仕組みはそれをより顕在化させ、対立を過激にする。前任者とか、大株主とか、当事者同士を超える大きな存在が、「まあ、まあ、今回はAで行こう、次はBで行くから」とか、「全然関係ないが実力のあるCを連れてくる」などといった対策を施し、一応、民主的納得のプロセスを経て(役員会とか総会とか)、対立を激化させないようにする。大事なことは、選挙祭りを盛り上げることではなく、日々の現実、日常の円滑かつ効率的な運営なのだ。

学校の先生たちは、実はそのことを理解しているので、生徒には選挙をさせ、多数決による投票という伝家の宝刀を抜くように仕向けつつ、自分たちは、学校運営上の火種を顕在化させないよう、決して「校長を選挙で選ばせろ」とは騒がない。会社の構成員たちも、少なくとも無意識的にそのことをよく承知しており、「選挙で社長を選べ!」とは騒がない。これが社会の現実である。

PeopleImages/iStock

2. 自民党総裁選

自民党総裁選のニュースが、台風のニュースと並んで連日、各メディアで取り上げられている。主な派閥の解散により、その軛(くびき)がなくなったということで、今までだと親分たちが調整していた候補者同士の争いが(派閥単位で立候補者数が基本的に限られていたのが)、そうではなくなった。今回は、ともすると過去最大数の候補者が乱立する可能性も取りざたされていて世間を大いににぎわせている。

若い小泉進次郎氏か、急に名前が出て来た小林鷹之氏か、国民的人気のあるベテランの石破茂氏か、岸田政権でも中枢だった茂木敏充氏か、女性の上川陽子氏か、党員でなければ投票はできないが、確かに見ているだけでも楽しいと言えば楽しい。

少なくとも、推薦人制度(20人の自民党所属の国会議員の推薦がないと立候補できない仕組み)が導入されてからは、立候補者数が過去最大となることはほぼ間違いない中、「やはり、自民党には色々な人がいて良いね」とか「選択肢が多いことは素晴らしい」と自民党の人気も上昇しているようだ。

テレ朝系の調査などを見ていると、7月までは政権交代をした方が良い(自民党は一度下野した方が良い)という傾向が世論調査で出ていたが、8月から逆転したようだ。私などに言わせれば、政治とカネの問題などに根本的に更にメスを入れるような自民党の大改革はこれからなのに、既に岸田氏の不出馬や派閥解散の反射的効果としての総裁選での候補者乱立などで、禊はある程度済んだという雰囲気すらある。

裏金議員への更なる懲罰(返納など)や公認問題などが取りざたされているが、それに留まってしまい、採用や任用、評価や組織改編など、本格的な自民党改革・政党や政治の仕組みの改革に話が進まなくなることを危惧している。

確かに、老若男女、百花繚乱で候補者が乱立することは、自民党の活性化に繋がっている。総裁選が盛り上がり、政治への注目が増すことも良い事である。その影響か、刺激を受けた立憲民主党側でも、総裁選に向け、候補者が乱立する流れとなっている(国会議員が自民党に比べて格段に少ないという分母の割に推薦人の数の縛りが厳しいので、実際にはさほど乱立出来ないとは思うが)。

そうした意味では、多数の候補者が「我も我も」と出てくることは、非常に良い面もあるのだが、私が懸念しているのは、そうした総裁選(選挙)の「功」の部分ばかりが注目されていて、「罪」の部分に多くの人の意識が向かっていないことだ。

先述したとおりであるが、選挙というものは組織の分断を大きく進めてしまう面がある。本当は政治にとっては、「選挙まで」よりも、選挙後にどのように組織を運営するかが最も大事なわけであるが、最近は、SNSの発達なども相まって、今まで以上に政治の「選挙まで」「PR合戦」というところが注目されてしまっている。

選挙までが全てとなると、PRのために、相手への誹謗中傷・論難がより盛んになってしまう。不都合な真実であるが、人間は、「私はこう考えるんです」という主義主張より、「あいつは怪しからん」とか「あいつのこういうところがダメなんです」という悪口合戦に耳を傾けてしまう。言わんや、お金や異性問題などのスキャンダルは最高の餌食だ。

行きつくところまで行ってしまったのがアメリカの民主主義で、大統領選などを見ていると、聞くに堪えない誹謗中傷合戦をトランプ・ハリス両陣営が繰り広げている。これで、「選挙後はノーサイドだ」、「私は民主党だけでなく(共和党だけでなく)皆の大統領だ」、となるわけがない。

悪いことに、今回の自民党総裁選は、候補者が乱立してバトルロイヤル状態である。恐らく一回目の投票で過半数を取る候補者は現れず、上位2名による決戦投票が行われる見込みであるので、二つの陣営の対立に最終的には集約されることになるが、それにしても、過去最長とも言われる選挙期間(告示日→投開票日)や、現職総理不出馬という状況に伴う告示日前からのさや当てもあって、各陣営同士の争いをエスカレートさせる期間が長い。

こう言うと語弊があるかもしれないが、一般論として、見ている分には選挙は楽しい。色々な候補者が色々な主義主張を述べ、更に言えば相手を論難し、それを見て大衆は留飲を下げたり怒りに火がついたりして、笑ったり泣いたりキレたり、安酒に酔ったような気分になる。

「知名度やPRが命」という状態に拍車がかかり、本来は選挙後の運営の方が大事なのに、選挙に勝つまでがすべてとなり、悪く言えば、中身がある候補者より、とにかく知られているスポーツ選手や芸人などTVやネットでおなじみの人が有利になる。どういう人を選ぶかは選挙民のレベル次第だ。

自民党の総裁選や日本の総理大臣の選出は、国会議員(や党員)などによって行われる間接選出方式なので、各地の首長選やアメリカ大統領選(選挙人制度なので一応間接だが、実質的には直接)のような直接選出方式とは異なり、“良く分かった人たち”による叡智を結集した選出となっている。今のところ自民党の総裁(=総理)が、芸能人やスポーツ選手の知名度頼みで決まる、ということにはなっていない。ただ、現下の流れを見るに今後はどうであろうか。

本来は、PR力や知名度よりも、選出された後の組織の運営力や政策の実現力で総理や総裁が選ばれるべきであるが、残念ながら、選挙が盛り上がれば盛り上がるほど、そうはならない。そして、選挙が盛り上がれば盛り上がるほど、陣営同士の分断が深まり、事後の運営は難しくなる。

3. 最後の希望

ここまで、世の中の選挙を巡る盛り上がりとは逆に、選挙による民主主義の危険性について述べて来た。世間では、あまりにナイーブに、選挙の功罪の“功”のばかりに注目が集まり、“罪”のことがほとんど一顧だにされていないからである。

私は、派閥政治や密室政治が素晴らしいと言うつもりは毛頭ないが、実際問題として、なぜ、派閥の長たちなどにより、時に密室で、次の総裁についての話し合い・調整・駆け引き・妥協などが行われてきていたかというと、それは事後の運営を円滑に進めるため、過度の血みどろの争いを避けるための知恵だからである。本質的には、企業で前の社長が次の社長を様々調整して決めたり、役所で事務次官(事務方トップ)をOBその他の有力者と調整しながら決めたりしている現実と何ら変わりはない。

ただ、もはや主な派閥は解体し、全てはガラス張り・透明化が素晴らしいとされ、こうした密室での調整は今や許されない。これから各党では、恐らく共産党と公明党を除き、今回の自民党や立憲民主党が基本的にガチの選挙でトップを決めていくしかない。

そうした中、では、一歩進んで、この“罪”の部分を補うには、どのような方法があるであろうか。これまた「ナイーブ」との批判はあろうが、結局、当事者や有権者、ひいては国民の良識に頼るしかない。例えば幸い今回の候補者の皆さんは、最終学歴が大学院だったり、難関大学だったりしていて、少なくとも政治学のイロハを学んできている人たちである(例えば東大が6名、ハーバード大大学院が5名いる)。

ナイーブな民主主義や選挙の危険性を十分に熟知している人たちであり、選挙後の振る舞いに期待したいとは思う。とはいえ、これだけでは心もとない。有権者や国民もこのことをよく意識して日本の民主主義を構築していくべきであるし、政治家にプレッシャーを与える行動も期待されるところだ。

筆者はこの春から、ハーバード・ケネディスクール日本人同窓会の3人の理事の1人に就任したが、今回の自民党総裁選の立候補者・立候補予定者には、茂木敏充氏、上川陽子氏、林芳正氏(同日本人同窓会会長)、齋藤健氏、小林鷹之氏、と5名のケネディスクールOB・OGが名を連ねている。

特に斎藤氏(経産省入省時からの付き合い)、小林氏(ハーバード時代の同級生)とは、良い付き合い・長い付き合いをさせて頂いているが、お二人とも尊敬・敬愛する人物で、私が上に長々と述べたことなどは百も承知で、大臣や議員としての仕事や、総裁選への取組みに汗をかいている。選挙で一度は論戦を戦わせても、相手を過度に誹謗中傷することなく、事後のチームワークを働かせるには、「同窓」であるとか、あるいは「同郷」であるといった力は実は大きい。

側面からではあるが、私もたまたま、大学や留学先の先輩や同輩が立候補しているという立場を活かし、日本の民主主義を守り育てるため、自らが出来ることをしたいと思う。