「身の丈経営」という言葉があります。自分の会社の能力や人材、売り上げ、財務規模など大きさに見合った経営をせよ、という意味です。ビジネスをしていると時として大きな話が舞い降りてくることがあります。それに踊り高ぶってしまうとどこかで梯子が外れるというわけです。
シャープが堺工場で作っていた大型テレビ向けパネルの生産をついに中止、撤退しました。シャープの液晶パネルといえば多くの方の思い出かもしれません。家電量販店のテレビコーナーに行けば「亀山製」などとシールを張ったシャープ製品がずらりと並び、日本人ならこれ、買うよね、と言わんばかりのブイブイぶりでした。その頃が同社にとってピーク。そしてそこから衰退というより坂を転がり落ちるような惨劇となります。台湾の鴻海に売られたとき、多くの人は嘆きました。なぜダメだったのだろう、と。鴻海傘下になって当初は多少、経営改善の期待がありましたが、その後は歌を忘れたカナリアのような状態でした。
何処で躓いたのか、細かいところを見ていけばいろいろ出てくるのでしょうけれど同社が家電大手と肩を並べ、更に突き放そうとしたこと、私はここにみています。それまでおこなっていた同業他社へのパネルの供給を自社向けに振り替え、他社から恨みを買ったのです。別に大きくなることが悪いとは言いません。ただ、日本の社会において各々の立ち位置には見えない「格式」が育まれているのです。差別意識ではなく、いわゆるプライドです。これが見えない壁だということに多くの人が気がつかないのです。
日本語に「閥(ばつ)」という言葉があります。「人と人とのつながり」という意味ですが、これに様々な漢字を組み合わせます。財閥、閨閥、門閥、学閥、派閥…といった具合です。現代なら「SNS閥」という言葉もできそうです。つまり人と人がつながりある共通点を通じてグループ化するわけです。その上で人は「閥」の所属意識を宿命、あるいは運命と考え、時としてそこに所属することに多大なるエネルギーを向けるのです。たとえば松下政経塾に入りたいというのは閥を自分の力で呼び込むことですね。
政治家が派閥を作りたがるのはひとりの意見より10人、20人の意見の方がより大きくなるからでしょう。政治家は政策実現のためにあらゆる工夫をするわけですが、賛同者がいないことには何もできない、そこで閥を作るわけです。
このような仕組みが日本の社会にはあらゆるところにはびこっています。これが身の丈とどう関係するのか、といえば「よそ者意識」です。同じ日本人でも隣人と必ずしも仲が良いわけではありません。マンションの鉄の扉は人の関係を冷たく遮断するものであり、お隣さんと親しく会話することはなかなかありません。
大学生あたりで「よっ友」という言葉が使われて久しいそうです。クラスなどで顔見知りなので「よっ!」とあいさつするけれどそれ以上はないというわけです。英語でGood Friendと訳すそうですが、誤訳だと思います。recognition (認識)、それ以上のなにものでもなく、友達なんかでもないのです。つまり会社や人々の交際交流範囲は思った以上に狭く、それを超えた部分は未知の世界とも言えるのです。
身の丈に合った生き方とはある意味、自分が所属している閥の中で出る杭にならず、うまく生きていくこと、これが日本的美感なのではないかと思うのです。冒頭のシャープの例とは踏み込んではいけない領域に入り込んだ、その入り方の礼儀がわるく、失礼な会社と思われたわけです。
では所属閥からは一生抜け出すことができないのか、これは議論が生まれそうです。ただ、日本では明らかに個人なり会社のキャリアや歴史を重んじる傾向があります。「あの人ってさ、昔〇〇だったんだって」とか「〇〇やっているあの会社が今度、これ作ったんだって」という感じです。新参者は明らかに距離を置かれる、これが常でしょう。
私はその制約が比較的薄いカナダで移民という立場で日々暮らしています。楽なんですね。気負うことなく、自分のビジネスを少しずつ成長させ、自分のライフを少しずつ変化させる中で閥意識をほとんど持たず、誰とでもすんなり入り込めるので新たな気づきやチャンスがたくさんめぐってきます。飛びつかず、しばらく放置した後「やっぱりやろう!」という選択もあります。
私が日本に戻りにくいのはその閥に再度入り込むのが大変だからなのです。そして閥には取り巻きとコア=幹部があり、取り巻きにはなれるけれど、今更幹部にはまずなれないもどかしさと壁に「面倒くさい」という気持ちにならざるを得ない、これが一番高いハードルではないかと感じるのです。
身の丈という尺度がない北米はある意味、伸び盛りには良いのかもしれませんね。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2024年9月1日の記事より転載させていただきました。