NHK大河ドラマ「光る君へ」は絶好調ですが、舞台になっているのがいまの京都市内のどこかということは、あまり紹介がありません。というのは、このころ、内裏が焼けることが多く、臨時に里内裏とかいわれた外部の公家屋敷に滞在していたことも理由です。
しかし、このあたりの事情は、拙著「地名と地形から謎解き紫式部と武将たちの『京都』」(光文社知恵の森文庫)で詳しく紹介しているので、その一部を使って紹介します。
平安時代の建築は、京都の町中にはひとつもありません。王朝文化を偲ぼうと思えば、安政年間の建築である京都御所と、明治時代の平安神宮しかないのです。
平安神宮の祭神は、桓武天皇と孝明天皇です。明治天皇のときに、この都を建都された桓武天皇と、お父上である孝明天皇を祀られました。きっかけは、第四回内国勧業博覧会を京都で開くことになり、そのパビリオンとして大極殿を復元したものを建てようということでした。
大極殿は、本来は、もっと巨大なものだったようです。平安時代には、巨大建築といえば、「雲太、和二、京三」といわれました。海辺にそそり立っていた出雲大社の神殿が最大で、奈良の大仏殿と平安京大極殿がそれに次いでいます。
火災による焼失のために、なんどか再建されていますが、桓武天皇創建のものは、二層入母屋造、八世紀後半の貞観時代のものは単層寄棟造、1072年(延久年間)の第三次のものは単層入母屋で、これを『年中行事絵巻』などを参考にして縮小復元したのが平安神宮です。この第三次大極殿も1177年の大火で消失し、再建されませんでした。
ともかく、市民にも献金をよびかけて建てた平安神宮ですので、ほかの神社とは少し位置づけが違い、お札も町内会を通じて配られたりします。
平安京の大内裏は、東西約1164メートル、南北約1394メートルで、築地(ついじ)を周囲に巡らし、外側に御溝水(みかわみず)が流れていました。築地には南北面に各三、東西面には各四、計一四の宮城門が開いていました。
正門は朱雀門で、羅城門と並んで重要な門です。正面に朝堂院があり、最初に応天門があって、東西両廊に栖鳳・翔鸞の二楼が連なります。これも含めて平安神宮に再建されて印象的な風景になっています。
帝の生活空間である内裏は朝堂院の北東方向にあって、正門は建礼門で、さらに承明門をくぐると紫宸殿前の広場で、左近の桜、右近の橘が植えられていました。
紫宸殿の西北に清涼殿があって、これが天皇の生活の中心です。内裏には、この二つのほか17の主要な宮殿があって、仁寿殿・承香殿・常寧殿・貞観殿・春興殿・宜陽殿・綾綺殿・温明殿・麗景殿・宣耀殿・安福殿・校書殿・後涼殿・弘徽殿・登花殿、それに妃たちの住まいがありました。
内裏の跡は、大極殿の後である千本丸太町の交差点から北東一帯に広がっています。普通の住宅街ですが、交差点から千本通を北へ行き、最初の信号を右に曲がると下立売通ですが、この通りともう一本北の新出水通にたくさんの案内看板が設置されていますので、迷うことはないと思います。掲示板には他の掲示板の位置も書いているので分かりやすいです。
定子の本来の住まいは、図の左上にある藤壺の北にあった梅壺ないし弘徽殿の北にあった登華殿で枕草子の舞台です。
ただし、兄の伊周と隆家が起こした長徳の変のとばっちりで父親の邸宅だった二条院に移って出家事件を起こしたのですが、これは二条通南側の室町通より東側の区画でハモ料理の堺萬などがあるあたりです。
また、その後、内裏に復帰させられず住んだのは、図の桐壺の西側の御曹司という場所で、ここで三人目の子を出産したあと死んだのです。
一方、彰子の本来の住まいは藤壺ですが、紫式部が出仕したときには、一条通南側で大宮通東側の和菓子の塩芳軒などがあるあたりでした。その後、出産したのは、道長の土御門殿(京都迎賓館の南側)ですし、そのあと内裏の藤壺に戻ったと思われます。
現在の京都御所では、戦争中に空襲を恐れて建物を整理したことと、近世に生活の便利を考慮して改造したので、紫宸殿や清涼殿はもとのままですが、あとは東側に、小御所、常御殿、学問所といったものがあって、その東側には御池庭があります。
新常御殿のあるあたりが、位置関係としては桐壺のあたりです。ここでは現代の地図に落としていますが、京都御所内の地図との重ね合わせは第二図のとおりです。現在の内裏の場所は平安京内裏とは違いますが、不意雰囲気を味わうならこちらのほうがいいかもしれません。
御所の公開のときには、京都御所西側の宣秋門から入って、承明門の前から紫宸殿の前の広場に出て、紫宸殿の西側から裏に回って新常御殿や庭を拝見することになっています。
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