2021年に「親ガチャ」が流行語になり、賛否を呼んだのは記憶に新しい。しかし私たちは、規格化されたクローン工場で製造されて生まれるのではないから、ガチャがあるのは本来あたり前だ。
むしろ問題は、これを使えばガチャの「あたりはずれ」を均せると信じられてきた装置が、世界中で壊れてしまったことの方にある。
冷戦下には、①個人の実力競争でガチャを克服するアメリカ型と、②国家権力がガチャを上書きして消すソ連型があったけど、②は1990年の前後にダメになり、2000年代を通じて①も飽きられた。いつまでも代わりの装置が出てこないのに疲れて、みんなガチャガチャ言い出したわけだ。
そんなことを10/10(木)のイベントに備えて、先崎彰容さんの『本居宣長』を読みながら久しぶりに考えた。なぜなら同書は、宣長をなにより自分の「運命ガチャ」に抗った人として捉え、描きなおしているからだ。
本居宣長はもともとは小津姓で、伊勢の商家の生まれである。父と、後継者の義兄が相次いで急逝し、本来なら家業を継がなければいけないのだが、学術肌の本人にはビジネスの適性がない。
結局、京都に遊学して医者となり、副業で古典研究を営むが、自分で調べて元は本居姓の武家が出自であり、商人の小津家へのジョブチェンジは、夫を戦死で亡くした妻が妊娠中に出奔したためだと突きとめる。「じゃあ俺もジョブチェンでいいジャン!」という、執念の調査レポートである。
また先崎さんが重視するのは、国語学者の大野晋が唱えた「宣長恋愛説」だ。宣長は京都時代、友人の妹(草深民)に一目惚れしたのだが、彼女は他に嫁ぐ相手がいたので、諦めて別の女性と結納を済ませた。
ところがそのわずか半月後、民の夫が死亡する。こんなボタンの掛け違いというか、夫婦ガチャの出間違いは許さんぞとばかりに、宣長は婚姻生活3か月でさっさと妻を離縁し(!)、2年後に民との再婚に漕ぎつける。
江戸時代には職業も結婚も、個人ではなく「家」のものだった。宣長はそんな家ガチャで人生が決められることに我慢ならず、自分の運命を自分で選ぼうとした。その意味で宣長は本来、「保守派」とは正反対だったのだ。
これに通じる文学者を、個人的には他にもうひとり知っている。三島由紀夫である。橋本治が、その三島論でこう書いている。
三島由紀夫にとって重要なのは、「欲望」ではなく、「意志」である。それがありさえすれば、〔小説『禁色』の台詞のように〕男は冷蔵庫とでも結婚出来るのである。
「冷蔵庫と結婚しておもしろいか?」という問いは、もちろん三島由紀夫には存在しない。
おもしろいかどうかは、結局のところ、彼にとっては「意志」の問題で、「“おもしろい”と思え」という命令が下れば、彼の意志は「おもしろい」と思う。それだけのことである。
橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』
新潮文庫、239頁
(強調を附し、段落を改変)
同性愛の気質があった三島は、意志の力で「女を好きになるぞ!」と決め、実際に結婚した。自分の力で運命を選ぶ点は宣長と同じで、いわば性的指向ガチャを拒否したわけだけど、そのとき自身の欲望を完全に押さえつけてしまうから、きわめてマッチョな発想になる。
しかし宣長はガチャとは闘っても、そっちの方向には行かない。むしろ正反対の「女性的」な性格の思想家だったと、先崎さんは述べる。
和歌研究の師匠だった賀茂真淵が『万葉集』の素朴な雄々しさを讃えたのに対し、宣長はむしろ人為的な約束ごとの多い『古今和歌集』を範とした。結果として真淵とは、絶縁寸前のケンカもしている。なぜか。
裸の本音をそのまま叫ぶ発想は、今だと露悪趣味のYouTuberがそうだけど、男性性のいちばんダメな部分と結びつく。だから宣長はむしろ、ガチャによる不条理ばかりのこの世界の中でも、葛藤し、折り合いをつけ、ネガティブさを抱えながら発された表現にこそ、美しさを見出した。古今集のほかは、『源氏物語』がそうであったように。
そもそもなぜ、古今集は編まれたか。編纂の背景には、「これに従えばすべて解決する」と説かれてきた、いま風に言えばグローバル・スタンダードへの信仰の、大崩壊があった。
寛平六年(894)の遣唐使の廃止ほど、〔当時の日本にとっての〕「西側」の普遍的価値の衰退と混乱を象徴した事件はない。唐の崩壊(907)は、古今和歌集勅命(905)のわずか二年後の出来事であり、大陸中心のグローバル・スタンダードはすでに限界を露わにしていた。
漢詩文の色眼鏡では、もはや目の前の世界を説明することはできないのであって、このとき日本人は、みずからの「ことば」によって、もう一度、混乱した「現実」に価値基準をあたえることを強いられたのである。
先崎彰容『本居宣長』新潮選書、155頁
世界がガチャに見えてくる――単にウチの国がダメなんじゃなくて、正しいと思われてきた模範国も含めてぜんぶダメになったと感じられるタイミングは、定期的に来る。最近だと、たとえば2016年のトランプ当選がそうだったし、今年彼が再選されればまたそうなるし、それを阻んでもいずれウクライナが敗戦すれば、同じ状況になる。
そこから目を逸らさず、かつ安易な幻想(世界はダメでも日本はスゴイ、とか)に逃げない思索が、この国では批評の系譜を作ってきた。紀貫之が古今集を編み、それを本居宣長が再評価し、さらに小林秀雄が魅せられ……といった具合に。
以前にもご案内したとおり、10/10の代官山蔦屋書店では、先崎さんのもう1冊の新著『批評回帰宣言』をめぐって、そうした議論ができればと思っている。Web観覧もできますので、多くの方にご参加いただければ幸いです!
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年10月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。