今月10日の先崎彰容さんとのイベントは、オンラインでの視聴も含めると70名超が参加して盛り上がった。終了後も、筆ペンで丁寧にサインする先崎さんに長蛇の列ができて、散会したのはなんと1時間後である。
唯一の心残りは戦後日本論が弾みすぎて、『批評回帰宣言』でいちばん好きな漱石を論じる章を、話題にし損ねたことくらいか。採り上げられているのは『門』(1910年連載)だけど、せっかくだと思い、その後いわゆる「三部作」を遡る形で読んでいったら、気づいたことがあるのでメモ。
『それから』(1909年連載)は、一般には恋愛小説だと思われている。ヘッダー写真はHuluから採ったけど、85年の映画版もその解釈で、松田優作の終始マジなのかハッタリなのかわからない演技が、明治末の高等遊民にぴたりとマッチした。
手っとり早く(すみません)、現行の新潮文庫版の裏表紙を引用すると――
長井代助は三十にもなって定職も持たず、父からの援助で毎日をぶらぶらと暮している。実生活に根を持たない思索家の代助は、かつて愛しながらも義侠心から友人平岡に譲った平岡の妻三千代との再会により、妙な運命に巻き込まれていく……。破局を予想しながらもそれにむかわなければいられない愛を通して明治知識人の悲劇を描く
強調は引用者
夏目漱石は1907年に朝日新聞の専属となり、主要な小説を同紙への連載で発表したことで知られる。なので『それから』も初出の際には、あたり前だがこうした要約はついていない(連載の「予告」的な記事は出たらしいが)。
つまり、最終的にどんな小説になるかは不明なまま、毎日ちょこっとずつ順々に読者は読んだはずである。同じように、先入観なしでページをめくってゆくと、あることに気づく。
代助が三千代を「かつて愛していた」のか、本当はよくわからないのだ。
主人公の代助は冒頭から、一貫して軽い「うつ」的な心身の不調に悩まされている。なぜ俺はこうなんだ、と自問自答するうち、親友の平岡の妻になった三千代のことを実はずっと好きで、彼女のいまの不幸が耐えがたいからではないかと、後になって思い始める。文庫で言うと、本文の終わりがp.344のところ、なんとp.277である。
『門』でも、訳あり気な主人公夫婦の過去は、(文庫の裏表紙には書いてあるが)だいぶ後まで明かされない。しかし『それから』の場合、代助の主観をなぞる形で進むので、ここで彼が見つけた「うつの原因」(三千代への愛)がファクトなのか、単なる感想かははっきりしない。
それでは、本当のうつの原因はどこにあるのか。代助自身でなく私の診立てでは、彼が明治のガチャ問題に気づいてしまったことだと思う。
代助はいまで言うと実家が極太のニートで、父は旧藩で家老だったと思しき士族、いまは兄が会社を継ぎ実業でも成功している。戦前の日本はスーパー格差社会だったので、代助クラスのニートは子供部屋に住むどころか、すべて実家持ちで別に一戸建てを借り、お手伝いのお婆さんのほか書生まで置く3人暮らしである。すげぇ。
もっとも大学(おそらく東京帝大)を出たインテリで、頭はいい。たぶんそれまでは、勉強もめっちゃ努力したと思う。だけど、それだけ色々考えた結果、彼は「あること」に気づいてしまう。
父も兄もあらゆる点に於て神聖であるとは信じていなかった。もしやかましい〔汚職の〕吟味をされたなら、両方共拘引に価する資格が出来はしまいかとまで疑っていた。それ程でなくっても、父と兄の財産が、彼等の能力と手腕だけで、誰が見ても尤(もっとも)と認める様に、作り上げられたとは肯(うけが)わなかった。
明治の初年に横浜へ移住奨励のため、政府が移住者に土地を与えた事がある。その時ただ貰った地面の御蔭で、今は非常な金満家になったものがある。けれどもこれは寧ろ天の与えた偶然である。父と兄の如きは、この自己にのみ幸福なる偶然を、人為的にかつ政略的に、暖室を造って、拵(こしら)え上げたんだろうと代助は鑑定していた。
新潮文庫版、127-8頁
(段落を改変)
俺は親ガチャで激レアなアタリを引いたけど、当のオヤジだって時代ガチャにあたっただけちゃうのん? というわけだ。そんな心境でいた代助の目の前に、学生のとき友人だった平岡と三千代の夫妻が転がり込む。
この2人、特に三千代は、ガチャにはずれている。銀行に勤め関西に赴任した平岡は、当時の常で芸者遊びに入れあげ、子分の部下には使い込みをやらかされて、クビになり東京に戻ってくる。三千代は生まれた子供を亡くした後、ストレスもあって心臓を壊し、夫婦仲は冷めている。
身分制度が崩れ、実力競争の世の中が来ると言われた明治維新に対して、いやいや「それから」実際どうなったんですか? おかしいんじゃないですか? と問うているのが、代助であり漱石なのだ。
はいあなた、いま「それあなたの感想ですよね?」って思ったでしょ?それが違うんだなァ(笑)。
なぜなら代助(の実家)に支援を求めるも、成果のない平岡は、当時は社会的地位の低かった新聞記者に転職する。そして、内心では三千代を奪うことに傾きつつある代助に、こんな話をする。
平岡はそれから、幸徳秋水と云う社会主義の人を、政府がどんなに恐れているかと云う事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人ずつ昼夜張番をしている。一時は天幕(テント)を張って、その中から覗っていた。
秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失いでもしようものなら非常な事件になる。今本郷に現われた、今神田へ来たと、それからそれへと電話が掛って東京市中大騒ぎである。新宿警察署では、秋水一人の為に月々百円使っている。
(中 略)
「やっぱり現代的滑稽の標本じゃないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を挑んだ。
241-2頁
大逆事件で秋水が逮捕されるのは、連載の翌年だった1910年6月で、11年の1月に処刑。しかし明治で屈指の美文家だった彼の思想は、後に「ガチャの修正」を企図した昭和の国家社会主義にまで、隠れた影響を及ぼしてゆく。
メリトクラシー(能力主義)は近代社会のOSで、かつ一度インストールすると元には戻せない。つまり導入した以上「否定」はできないのだけど(できないからこそ)、つねに懐疑を持ちながらつきあい、こつこつデバッグし続けるしかない。
用語だけ現代風にしたけど、『それから』に滲むそうした精神を、明治以来の日本人は「批評」と呼んできた。だからそれは、世界のどこかで近代の諸矛盾を一掃する「答えはすでに出ている」と錯覚し、その導入に向けて「うおおおお!」とだけ叫ぶ幼稚な発想とは、まったくの別物である。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年10月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。