”倫理資本主義”を提唱する独哲学者

米大統領選挙の投開票が5日、始まった。選挙結果が判明するまで時間がかかるだろう。民主党のハリス副大統領と共和党のトランプ前大統領との戦いだが、どちらが勝利するかは予想が難しい。

マルクス・ガブリエル氏 スイス国際問題研究所HPより

米国の有権者の最大関心事はウクライナ戦争、中東紛争といった国際問題の行方ではなく、国内の経済問題だ。インフレ対策や雇用問題だ。ところで、独週刊誌シュピーゲル(10月26日号)に非常に啓蒙的なインタビュー記事が掲載されていた。ドイツのボン大学で哲学を教えているマルクス・ガブリエル教授との会見記事だ。同氏は‘倫理資本主義’を主張し、「経済は道徳的に運営すべきだ」と述べている。

ガブリエル教授によると、「資本主義の問題点は経済分野の天才の出現や‘神の手’によって解決されるのではない。資本主義の終焉を主張する声もあるが、行動経済学者が指摘しているように、人間は道徳的に反応する動物だから、資本主義の中から解決策が生まれてくる」というのだ。

資本主義では商品の価格は需要と供給の関係で形成される。供給が少なく、需要がある場合、その商品の価格は高くなる傾向が出てくる。18世紀の英国の経済学者アダム・スミスは「国富論」の中で市場主義システムはそれ自身が「自己完結的」と指摘し、「市場は見えざる手でコントロールされている」という箇所がある(「神の見えざる手…」という表現は後日、誇張されて伝わっていったといわれている)。その観点からいえば、ガブリエル氏の「倫理資本主義」は「見えざる神の手」を言い直して表現したとも受け取れる。共通点は資本主義の中にその運営形式と解決策を内包しているということだろう。ただ、国民経済が停滞すると、もはや「神の手」に委ねるのではなく、政府が経済活動に関与していくから、どうしても「大きな政府」が生まれてくる(「『神の手』と『見えざる手』の黙示論」2020年11月28日参考)。

ガブリエル教授は「資本主義社会の会社は最大限の利益を目指してその経済活動を展開するのは当然だ。ただ、その目的は買い手、消費者にとって多くの良きことを提供するためにあるべきだ。だから、企業の中に会計部門があるように、会社の価値観を明確に管理する倫理部門を創設すべきだ」と述べている。

ガブリエル教授の発言で興味深い点は、「資本主義が救済されれば、民主主義も救われる」という箇所だ。資本主義社会では、不平等な富の配分や格差から雇用問題まで多くの問題が生じているが、それを受け、民主主義という政体も揺れる。民主主義の危機が叫ばれて久しいが、それは同時に資本主義の危機を意味してきたわけだ。ガブリエル氏の見解では、資本主義が癒されれば、民主主義社会も改善されるというわけだ。

ガブリエル氏は「われわれは今、新しい社会契約が必要だ。経済的、道徳的価値を新たに宣言する新しい啓蒙が必要となってくる。良き経済活動は単に利益の最大化ではなく、社会、国家の諸問題への解決策を提示するものでなければならない」というのだ。

3頁余りの会見記事だから、ガブリエル教授の”倫理資本主義、道徳経済”の全容を理解するのには無理があるかもしれないが、1980年生まれの若いドイツ人哲学者の指摘は新しいものではないが、とても啓蒙的だ。

ガブリエル教授のインタビュー記事を読んでいると、同じシュピーゲル誌が2015年8月、オーストラリアのメルボルン出身の哲学者ピーター・シンガー氏(Peter Singer)とインタビューしていたことを思い出した。シンガー氏はその中で、Altruism(利他主義、独Altruismus)の新しい定義を語っていた。タイム誌で「世界で最も影響力のある100人」の一人に選ばれたシンガー氏は「効率的な利他主義」を唱えている。主張だけではない。同氏自身、所得の30%から40%を貧困者救済のために活動する団体に献金している。

シンガー氏は、「利他主義者は自身の喜びを犠牲にしたり、断念したりしない。合理的な利他主義者は何が自身の喜びかを熟慮し、決定する。貧しい人々を救済することで自己尊重心を獲得でき、もっと為に生きたいという心が湧いてくることを知っている。感情や同情ではなく、理性が利他主義を導かなければならない」という。シンガー氏によれば、利他主義者は犠牲も禁欲も良しとせず、冷静な計算に基づいて行動する。一般的な利他主義とは異なっている。同氏が主張する“効率的な利他主義者”は理性を通じて、「利他的であることが自身の幸福を増幅する」と知っている人々だ。「人間が純粋に理性的な存在だったら、われわれ全ては利他的な存在だったろう。理性的ではないため、利己主義と利他主義の間に一定の緊張感が出てくるわけだ」と言い切っている。

シンガー氏の「効率的利他主義」、そしてガブリエル氏の「倫理資本主義」という見解は、価値観が混迷としている現代社会で新鮮なインパクトを与える。当方は、「人間は全て狼」とみる英国の哲学者トマス・ホッブスの人間観より、「他者の為に生きることが自分の幸福につながる」と確信するシンガー氏の利他主義やガブリエル氏の倫理資本主義に心の安らぎを感じる一方、両氏の確信を羨ましく思う。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年11月日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。