来年は戦後80年の節目の年である。太平洋戦争関連の書籍が多数刊行され、雑誌でも様々な企画が組まれるだろう。もっとも、これだけ年月が経過すると、新史料・新証言によって通説が覆される確率は低い。むしろ、既知の史料・証言を改めて検証することが重要になってくるだろう。
さて来月は太平洋戦争開戦、真珠湾攻撃の月である。世界の戦史に残る空母機動部隊による敵本拠攻撃という大奇襲作戦を成功させた山本五十六は、戦時中は「軍神」と崇められた。無論、この時期の山本人気には、戦意高揚のための政府・軍によるプロパガンダの影響が大きかった。前線視察中に米戦闘機に撃墜された最期すら、名誉の戦死として称揚された。
ところが山本は、戦後においても人気を博した。すなわち、アメリカとの国力の差を熟知し、対米開戦に反対の立場でありながら、心ならずも対米決戦に心血を注いだ「悲劇の提督」という評価が定着したのである。
だが1980年代になると、山本「愚将」論が台頭する。契機となったのは元海軍軍人の生出寿による『【凡将】山本五十六』(1983年、現代史出版会)である。
生出によれば、連合艦隊司令長官になってからの山本の対米不戦論は形ばかりで、実際には真珠湾攻撃計画に熱中していたという。そして真珠湾攻撃自体、行なわないほうが良かったのではないか、と生出は問題提起する。これはもともと、(真珠湾攻撃に否定的であった)軍令部関係者などが戦後に唱えていたもので、生出は彼らの意見を逐一紹介している。
曰く、真珠湾攻撃の戦果は見掛け倒しである。奇襲時、米空母は真珠湾に在泊していなかったので、1隻も沈められなかった。加えてアメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷させたものの、真珠湾の浅海は12メートルしかなく、港湾施設の損害も少なかったため、6隻は後に引き揚げられ修理され戦線復帰している。つまり、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は、「アリゾナ」と「オクラホマ」の2隻にすぎなかった。
さらに、航空機により戦艦を沈めることができると知ったアメリカは、航空主兵に転換した。日米の工業生産力には大差があり、アメリカが航空兵力を整備し航空戦を挑んでくるようになると、日本の航空兵力はたちまち消耗して、1年後にはほぼ無力になってしまった。
これらの批判は、たしかに的を射ている。けれども軍令部が本来考えていた漸減邀撃作戦のほうが勝算ありという生出らの主張は、どうであろうか。
日本海軍が対米戦の基本方針としてきた漸減邀撃作戦とは、太平洋を西進する米太平洋艦隊を潜水艦や航空隊によって少しずつ撃破し、彼我の戦力が拮抗、できれば日本優位になったところで、日本近海において艦隊決戦を行なうというものである。
しかし山本は、漸減邀撃作戦は机上の空論であり、これに固執することは危険であると説く。「作戦方針に関する従来の研究は是亦正常堂々たる邀撃主作戦を対象とするものなり。而して屢次図演等の示す結果を観るに帝国海軍は未だ一回の大勝を得たることなく」、すなわち、図上演習などのシミュレーションを何度行なっても日本側が大勝したことはない、というのである(「戦備訓練作戦方針等ノ件覚」)。
さらに、そもそも米太平洋艦隊が日本側の注文どおりに動いてくれて、主力同士の艦隊決戦が実現するかどうかも不透明である。山本は「(前略)実際問題として日米英開戦の場合を考察するに全艦隊を以てする接敵、展開、砲魚雷戦、全軍突撃等の華々しき場面は戦争の全期を通じ遂に実現の機会を見ざる場合等をも生ずべく(後略)」と述べ、全軍激突しての艦隊決戦が起こらない可能性を指摘している。
さらに言えば、軍令部が練り上げてきた漸減邀撃作戦は、アメリカ1国と戦うことを前提にしていた。だが現実には、日本はアメリカのみならず、イギリスやオランダをも敵に回したため、連合艦隊は米太平洋艦隊との戦いに全力を注ぐことはできなくなった。
日本陸海軍の対米英蘭作戦の第一段は、南方作戦であった。東南アジアにおける米英勢力を駆逐するとともに、蘭印(オランダ領インドシナ)のジャワなどの重要資源地帯を攻略確保することが目的であった。したがって連合艦隊は南方作戦にも参加しなければならないし、イギリス東洋艦隊への対応も必要になった。南方作戦と、米海軍との艦隊決戦とを両立することはきわめて困難である。
連合艦隊司令部首席参謀で山本の懐刀だった黒島亀人は、真珠湾攻撃に反対する軍令部との論戦において、真珠湾攻撃によって米太平洋艦隊を叩いておかなければ、南方作戦は不可能であると主張したが、これは黒島の言うとおりだろう。真珠湾攻撃によって、一時的とはいえ、米太平洋艦隊を行動不能にしたからこそ、南方作戦はスムーズに進んだのである。
とどのつまり、日本海軍にはハワイ作戦以上の妙案はなかったといえる。外交当局の不手際により開戦通告が遅れ、真珠湾攻撃が宣戦布告前になったこともあり、「だまし討ち」に遭った米国民は怒り、かえって士気を昂揚させてしまった。この点は山本の誤算であったが、ほかは予想以上の成果だった。
米太平洋艦隊が航空哨戒を怠っていなければ、真珠湾到着前に機動部隊は発見され、かなりの被害を受けていただろう。山本の勝利は敵の油断や幸運に助けられたものであり、現実以上の成果を挙げることは難しい。
連合艦隊が米太平洋艦隊主力を撃破したことで、米艦隊が南方作戦に介入する可能性はなくなり、南方部隊は行動の自由を得た。開戦から半年の日本の快進撃は、真珠湾攻撃の成功に支えられている。軍令部が望む作戦目的を山本は果たしたのであり、この点は正当に評価されるべきである。
もちろん、そもそも対米戦をやらないことが最善だったことは言うまでもない。山本自身、対米戦は十中八九負けると考えていた。
それならばなぜ、「対米戦争はやれません。やればかならず負けます。それで連合艦隊司令長官の資格がないと言われるのなら、私は辞めます」と山本は言わなかったのか、というのが前出の生出の批判である。
ただ、近年、大木毅氏が指摘するように、日独伊三国同盟締結に反対した海軍次官時代と異なり、部隊を指揮する連合艦隊司令長官の職に就いている以上、職掌外の業務である政治に介入することはできない、というのが山本の考えだったと思われる(大木毅『「太平洋の巨鷲」山本五十六』角川新書、2021年)。
対米戦をやるかやらないかという判断は、政治の領域に存する。政府が対米戦に向けて動いているなか、自身が対米戦に反対の意見を抱いているからといって、戦争準備と指揮の責任を放棄することは、軍人として到底許されない。
とくに海軍には、軍人は政治に口を出さず、己の職分を全うすべきという価値観が支配的であり、山本はこの伝統に忠実であった。山本を過度に賛美するでもなく、必要以上に貶めるでもなく、等身大の実像を明らかにすることが求められる。