松下政経塾とは何か①:高市早苗・野田佳彦らの原点

昨日、高市早苗のこれまでと今後の課題についてPRESIDENT Onlineで書いた『高市早苗氏はいつ「タカ派政治家」になったのか…「ポスト石破」に一番近い女性政治家の”克服すべき弱点”』を敷衍し、加筆した記事を書いた。

高市早苗氏はどうしたら初の女性首相になれるのか?
PRESIDENT Onlineに、高市早苗氏の政治家としての歩みと、総理になるための課題について書いた。「高市早苗氏はいつ『タカ派政治家』になったのか…『ポスト石破』に一番近い女性政治家の克服すべき弱点」という記事だ。 もし...

高市は松下政経塾の生んだ女性政治家第一号なのであるが、以前ほど、松下政経塾について話題になることもないので、あらためて、拙著『松下政経塾が日本をダメにした』(幻冬舎)を抜粋してこの塾がどうしてできて、松下幸之助の思いがどのように籠もっているのか、三回ほどにわたって紹介したい。

所得倍増計画が大成功していた昭和30年代、松下幸之助は長者番付の常連であった。とくに、1955年から59年、61年から63年、そして、1968年と1984年には第1位に輝いている。

その意味では、最高の成功者であったし、多くの人にとって憧れの的であった。しかし、今日の声望の高さと違って、当時も、誰しもが認める「敬愛すべき偉人」だったかといえば、そうではないのだ。筆者が幼いころ、子どもが松下幸之助の名前をうっかり、尊敬する人として上げようものなら、大変だった。大人たちは、「嘆かわしい拝金主義的腐敗だ」と嘆いたりしたものだ。

松下は、いわゆる普通の財界活動にも熱心だったわけでなく、関西にとって起死回生の大プロジェクトだった大阪万博協会の会長をも断った。

流通網をコントロールして値引き販売を排除し、ダイエーや公正取引委員会と戦ったことが、反社会的でないかと非難されたこともある。

なにしろ、いまもって、松下の会社の製品を「他社の製品の模倣であり、流通の力で成功しただけ」などといい、彼が創立した松下政経塾にそうしたイメージをかぶせて揶揄する人がいる。

また、総じて東日本の人にとっては、優れて西日本的な現実主義者としての側面を持つ松下幸之助への違和感が、当時も現在もある。また、武士的な論理による、やせ我慢をもってよしとし、商人の社会的役割を正当に評価しない儒教的思想とか、左翼的な唯物主義の影響によるビジネスの効用軽視も、いまなお日本社会では健在なのである。

そんな松下幸之助のイメージを好転させる契機となったのは、1964年にアメリカの「タイム誌」に掲載されたことだ。最高の産業人、長者番付のトップである富豪、思想家、雑誌発行者、ベストセラー作家であると紹介された。

高市早苗氏インスタグラムより

70年安保の時代と思想家としての幸之助

松下はその出発点からある種の哲人としての雰囲気と志を持っていた。1929年の松下電器製作所への改称と同時に「綱領・信条」を設定しているし、1932年には、「命知元年」と定めて第1回創業記念式を開き、ヘンリー・フォードに倣った「水道哲学」「250年計画」「適正利益・現金正価」を社員に訓示したりしている。

しかし、このタイム誌の記事あたりから、日本のよき商人道の実践者として評価され始め、1968年の「道を開く」が450万部という大ベストセラーになったことで、思想家としても評価を確立したのである。

その人間観・社会観は、明快であったし、論理的でもあった。外国での人気も背景に彼の思想の普遍性への世間の理解が深まっていったのがこの時期だった。

一方、このころ、70年安保は学園紛争の高揚はあったものの、高度成長の成果を謳歌する大阪万博の晴れやかさで乗り切った。だが、都議会議長選挙をめぐるスキャンダルを発端に、地方自治体レベルでの社共共闘が力を増し、1967年には東京史上初めての革新都政、美濃部都政が実現し、その4年後には大阪も革新府政となった。

こうした風潮に、経済人にも「だまって見ているわけにはいかない」というムードが全国的に出てきていた。1970年の京都府知事選挙で、ワコールの塚本幸一が中心となり、自治省事務次官だった柴田護を擁して、蜷川革新府政打倒の先頭に立って戦ったが爆沈した。

塚本は、松下が夭折した長男と同じ名だということもあって、息子のように可愛がっていたから、この出来事も松下に強い刺激を与えたに違いない。

そうした自民党の腐敗や、ふがいなさへの不満、革新勢力への世論の傾斜という社会的風潮への危惧のなかで、松下にとっては、ついに、政治を刷新するために行動すべき時が来たという思いが高まったのである。

池田大作と松下幸之助にとっての戦争の苦き思いと政治

ただし、松下幸之助が政治への関心を持ったのは、戦争と戦後の財閥解体による挫折がきっかけだといわれる。

1917年に大阪市東成区猪飼野で創業したのち、1932年には、門真市の現本社所在地に移った。

敗戦によって、戦争協力者として公職追放処分を受けたし、一代で築いた会社であるにもかかわらず、財閥解体を目的とした「制限会社指定」まで受けた。

この苦難を通じて、政治の失敗が経済人としての汗の結晶をあっというまに雲散霧消してしまうことに憤り、「良い政治が行われるように関心を持たねば」という思いを松下に持たすに至ったのである。

1951年の長期外遊によってアメリカなどで見聞を深め、戦後の日本人が形の上では主権者となったにもかかわらず、「無責任に権利ばかり主張する」「選挙には参加するが、そののち十分に監視することもしない」という思いを強くした。

「月刊PHP」でも、1967年から「政治を大事にしよう」というキャンペーンを始めた。「国民が政治を嘲笑している間は、嘲笑に値する政治しか行われない」「民主主義国家においては、国民はその程度に応じた政府しか持ち得ない」というスローガンが唱えられた。

1965年ごろからは、政治家育成機関の設立を真剣に考えていたらしい。だが、「実業家が政治に口を出してろくなことはない」と友人たちから止められた。確かに、このころなら、松下自身が政治家になっても、まだおかしくはない年齢である。とりあえず塾を創るといっても、流れとして、結局は松下自身が政治家にされてしまう方向に持って行かれてしまうのでないか、という危惧が友人たちにも社内的にもあったのかもしれない。

1971年には創価学会の池田大作会長(当時)と京都の真々庵で会談した。その際に政経塾の構想を語ったことが「新・人間革命・第22巻」に書かれており、この際に池田会長に対して「塾の総裁就任」を打診したという。

この2人の巨人の思想が論理の組み立てとして同じとはまったく思わないが、共著もあるし、肌合いとしては目指すところの共通性は強いから、あってもおかしくない話だ。

戦争中の思想弾圧で、創始者である牧口常三郎を獄死させられたことが、創価学会による政治への進出の原点なら、苦労して立ち上げた企業を戦争で台無しにされたことが松下の政治への関心の根源にある、そういう意味でも共通性は高い。

松下村塾に似ていることで松下政経塾に決定

1978年になって、具体化が始められる。「21世紀はアジアの世紀になり、日本と中国がその中心になる。そのためにも、いまから政治を整え準備しておかなければ」とも松下はいったという。

このことは、松下が熱烈な愛国的心情を持ちつつも、偏狭な民族主義者でなかったことを示している。その意味では、政経塾卒塾生にアンチ中国で論陣を張る人が多いのが不思議と言えば不思議だ。

しかし、「政治家育成」に公益性があるかとの疑問が呈され、「この研修によって正しい社会良識と必要な理念、ならびに経営の要諦を体得した青年が、将来、為政者として、あるいは企業経営者など各界の指導者として」と、設立趣旨は、政治家に限定しないように書かれることになった。

いずれにせよ、文部省に対する財団認可申請が行われたのは1978年10月2日。設立発起人総会は翌年の1月20日、そして、認可が下りたのは6月21日のことだった。

そして、塾長(のちに塾主)兼理事長に松下自身が就き、松下電工の丹羽正治が副理事長となった。丹羽は松下電器がようやく中堅企業に成長し始めたころに、大阪高商を卒業して入社した、いわば、松下電器で初めての高学歴社員で、のちに、松下の娘婿である松下正治の姉と結婚している。松下の代理人、松下イズムの代弁者として、余人をもって代え難い人物だった。

富士山が見える茅ヶ崎に校舎を置くまで

校舎が松下電器の本拠地である関西でも、あるいは政治の中心である東京でもなく、神奈川県茅ヶ崎市汐見台であったことは、意外な感をもって迎えられた。

茅ヶ崎は政治の場である東京にほどよく近い。奈良県に別の候補地があったというが、外部の講師に来てもらうためにも、塾生たちが政治家などと接触を持つにも、東京からあまり離れない方がよかった。

ただし、東京そのものにつくらなかったのにも理由がある。ビジネス活動は大阪でも、行き詰まったときなどに思索する場は京都としたのと同じで、政治の現場そのものでは、未来の日本を背負う政治家を大局的な観点で育てるには、ふさわしくなかった。