12月4日に、関わっている『公共』の教科書の版元がロング・インタビューを載せてくれたのだが、ご存じのとおり、同日未明にまさかの「戒厳令騒動」が韓国で起きるとは思わなかった。
戒厳令(名称には非常事態宣言とか、色々ある)を敷くとは、平時モードではもはや「公共」を維持できないので、ここから戦時モードの「公共」にチェンジします、と宣言する行為だ。よい機会だから、平時と戦時には公共性がどう形を変えてしまうのかについて、考えてみよう。
今回の韓国の戒厳騒動は、少数与党のため議会をコントロールできず、政権運営に行き詰まった尹錫悦大統領が試みた「上からのクーデター」だとされる。国民に向けた会見で語られた尹氏の言い分は、日本語訳によるとこうした理屈である。
私は大統領として、血を吐くような心境で国民の皆さんに訴える。
(中 略)
国政は麻痺し、国民のため息は増えている。これは韓国の憲政秩序を踏みにじり、憲法と法律によって建てられた正当な国家機関を妨害するもので、内乱を画策する明らかな反国家的行為だ。
国会は犯罪者集団の巣窟となり、立法独裁を通じて国家の司法行政システムをまひさせ、自由民主主義体制の転覆をたくらんでいる。
私は北朝鮮の共産主義勢力の脅威から韓国を守り、国民の自由と幸福を略奪している悪徳な従北反国家勢力を一挙に粛清し、自由憲法秩序を守るために非常戒厳を宣言する。
(中 略)
私は身命をささげて韓国を守る。私を信じてください。
強調は引用者
戒厳令やクーデターと聞くと、悪辣な独裁者が強行するイメージがあるが、そうした人でも「私は既存の法を無視して全権力を握り、一切の制限なく私利私欲をほしいままにしたいので、戒厳を布告します」とは言わない。いちおうはもっともらしい言い分で、国民から正統性を得ようとする。
今回の尹氏のように、「現にこの国では公共が壊れてしまった。もはや平時から戦時への移行なくしては、再び公共性を取り戻すことはできない」といった主張がなされるのが一般的だ。たとえば世界史上の著名クーデターとして上から三指に入る、1973年9月のチリでもそうだった。
しかし、そもそもなにを以って、平時の公共は「壊れた」と言えるのか。それが戦時に置き換わるとは、どういうことなのか。
先ほどの尹大統領のスピーチの、強調箇所を見てほしい。尹氏が行っているのは、対立する相手(野党)が行っている「自分への批判」を、まず①「国家そのものの全否定」へとすり替え、さらにその理由を②「外国勢力の手先」だからだと認定する作業である。
私を批判する者たちは、実際には①私よりももっと大きく「不可侵であるべきもの」を否定しており、したがって平時の公共=民主的な話しあいでは対応できない。よって彼らを②説得も交渉も「不可能な敵」だと見なし、戦時の公共=物理的な排除で対処しよう。これが戒厳の論理だ。
……で、お聞きしたいんですけど、みなさんはこうした論理と本当に無縁でしょうか。尹氏の場合はたまたま大統領だったから、大ごとになっちゃっただけで、個人単位でソロ戒厳令みたいなふるまいを、ついついしちゃってないですか? 最近も。
気づいている人もいるように、コロナに始まりウクライナが続いた2020年代の前半は、薄められたショボい戒厳令とも呼ぶべき空気が、日本の特にSNSを覆った時代だった。冒頭で紹介した『公共』のインタビューで、ぼくはそのことをこんな風に述べている。
ChatGPTのような生成AIに質問して教えてもらうのは、Googleで検索して自分で考えるより10倍も多く電力を使うので、環境への負荷としては最悪です。だからAIと脱炭素化が同時に流行するのは、本来なら矛盾している。
どうしてそんな奇妙な事態が起きたかといえば、「人間の悪口さえ言えればそれでいい」人が、あまりに増えたからです。「どうせAIには勝てない」「地球にとっては迷惑」という口実をつければ、いくらでも他人の活動をくだらないとけなすことができます。
ニヒリズムと癒着した正解志向は、「だからそれ以外は要らない」という攻撃の道具として便利だった。それが猛威を振るったコロナ禍では、他の人を叩いてストレスを晴らすために、お前のやっていることは「不要不急だ!」とレッテルを貼る人が続出しました。そうしたネットリンチの流行は、ウクライナ戦争の下でも、意見が異なる相手を「親露派」呼ばわりする形で引き継がれています。
こうした状況では、同じ社会に生きる人を信頼しあえず、まして議論に基づく民主主義など育てようがないでしょう。
強調する箇所を改変
2020年に始まったコロナ禍では、急造されたワクチンは「安全なのか」「強要するのはどうなのか」と疑問を呈しただけで、①自然科学を全否定する者であるかのようにバッシングされる例が目立った。しかし、現実はどうだったのか。
22年からのウクライナ戦争でも、当初は「早期の停戦を模索すべきだ」と主張するや否や、プーチンの目論見に従う②「ロシアのスパイだ」と叩かれがちだった。それで、停戦の可能性を排除しひたすら軍事支援を続けた結果、ウクライナは勝てたのか。
ブロック機能を典型として、膨大な発言量を管理するSNSの世界では、異論を説得するよりも物理的に排除することで秩序を保っている。昔は「アーキテクチャ型権力」と呼ばれたりもしたけれど、なんのことはない、SNSでは「戒厳が日常なのだ」と言うこともできる。
実際にヘビーなツイッタラーとして、そんな日常にどっぷり浸かると、自らの発言歴を追跡・批判されただけで「中傷だから公権力による規制を!」なる発想に傾く学者も出てくる。こうなると、尹錫悦氏まであと一歩である。
韓国の議員たちが国会に集まり、法的な手続きに則り戒厳の解除に成功したことで、コロナ禍以来ひさしぶりに「憲法に緊急事態条項を設けるべきか」の論争が再燃しているが、ピントが外れた議論だと思う。
もし大統領の独走ではなく、軍の全体が承認する本格的なクーデターだったら、そもそも国会を開こうとしても実力で阻止されたか、またはやはり実力で開かなかったことにされただろう。平時から戦時に移行するとは、そういうことなのだ。その自覚なしに、法技術だけを云々しても空しい。
私たちは戒厳の「論理」とはなにかを知り、それが戦争からしばらく離れた国でも秘かに、広く浅く瀰漫しつつあることを知らねばならない。みじめな尹錫悦氏の失敗が韓国では「二度目の笑劇」に過ぎぬとしても、それがいつか日本で「一度目の悲劇」になる日が来ないとはかぎらない。
(ヘッダーは12月4日早朝、速報時のTBSより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年12月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください