なぜ承認欲求のためにキラキラすると失敗するのか

いま発売中の『週刊新潮』12月12日号に、JTさんのPR記事の形で1ページもののインタビューが載っています。連続企画の名前は「そういえば、さあ」で、私の回のタイトルは「ネガティヴさを許しあえる社会に」。

ずばり! イントロは「コロナでみんなが自粛しろと言って飲食店を閉めたので、逆に公園で外飲みするのが趣味になりました」というお話で、雑誌上のイラストのほか、1年前の『危機のいま古典をよむ』でも詳しくレポートしました(笑)。

危機のいま古典をよむ 與那覇 潤(著/文) - 而立書房
コロナ、ウクライナ、そして……危機の時代こそ、「専門家」任せにせず、自分の頭で読み、考える。希望の読書論! E.トッド、苅部直、佐伯啓思・宇野常寛・先崎彰容、小泉悠との《書物がつなぐ対話… - 引用:版元ドットコム

で、今回はそこから、なにをお伝えしたいかと申しますと――

人は誰しも周囲から承認されて、自分は「この場所にいる価値のある存在だ」と思いたい。業績をあげたり、資格を取ったりするのはそのためです。

しかし、そうしたポジティヴな方向で承認欲求を追い求めると、もっともっと、と際限がないんですね。一度でも「俺は億稼いでいる」という基準で欲求を満たしたら、収入が数千万円に下がると傷つくでしょう。十分立派で、贅沢も出来るのに。

むしろネガティヴさを周りと共有できたとき、人は最も安定した承認を得られるんです。

52頁(強調は今回付与)

そうなんです。もはや「承認欲求」って、すっかり悪口になってるじゃないですか。「あれって承認欲求でしょ?」みたいに言われて連想するのは、いまだと話題のキラキラ選挙広報コンサル女子のSNSだったりするわけで。

斎藤知事はそろそろPR会社女性社長を切り捨てる? 「問題投稿」が削除されない本当の理由とは(全文) | デイリー新潮
斎藤元彦兵庫県知事(47)の再選をブレーンとして支えたとされるPR会社女性社長。…

だけどそれは、二重の意味でまちがっている。一重めは、①他人から承認されずに生きていける人は「いない」ことを見落としている点で。二重めは、②承認を得る道は「キラキラしてゆくことだ」と思い込んでいる点で。

確かにときどき、「俺は他人の承認なんか別に要らないぜ!」みたいにマッチョなことを仰る方が(男女問わず)居るんですが、じゃあなんであなたはそれを人前で口にしてるんですかね(苦笑)。本当に承認欲求がないのなら、黙って満ち足りてりゃいいじゃないですか。

性的な問題を含まないパワハラ、モラハラ……へと拡大してきた「ハラスメント」の概念にしても、要は「承認を与えないままで、相手を使うだけ使おうとする態度」を指しているので、自称・承認欲求のない方は生涯、自分はハラスメントされたと訴える資格はありません。本人がそれでいいと仰るなら、まぁ強く生きてください(笑)。

『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―』 斎藤環、與那覇潤 | 新潮社
「友達」はいないといけないのか。「家族」はそんなに大事なのか。「夢」をあきらめたら負け組なのか。「話し上手」でないとダメなのか。「仕事」を辞めたら人生終わりなのか。「ひきこもり」を専門とする精神科医と、重度の「うつ」をく

より問題が深刻なのは、2つめの論点の方です。本人が「キラキラしないかぎり承認を得らえない!」と思い込むだけなら、うーん、それで行けるところまで一度行ってみてもいいんじゃない? でOKなんですが、近年顕著なのは、勝手にそれを他人にあてはめてくる動きなんですよ。

ダイバーシティ(多様性)なる用語を口にする人や団体ほど、「障害者でもキラキラできる!」「性的マイノリティをキラキラさせよう!」みたいなね。それは世界をキラキラで埋め尽くそうとしているわけで、むしろきわめて単一志向な発想なんだけど、当人たちはそれに気づかない。

めざそう、キラキラと多様な世界
(こちらのショップより)

昔、文学というものが教養だった時代なら、そのおかしさをパッと見抜けたんですけどね。

たとえば、自分が人生からも社会からも疎外されたと感じるとき、心を支えてくれるのはプロレタリア文学と東大仏文科と日本共産党のすべてから脱落した太宰治の小説であって、キラキラした英雄的労働運動家の活躍を讃頌する社会主義リアリズムじゃない。でもそうした時代の記憶が、もうみんな抜けてるからなぁ。

太宰治の「リベラリズム」|Yonaha Jun
一昨日の記事の続き。来月に出る『ひらく』10号で、同誌はいったん休刊するのですが、ヘッダーの写真のとおりそこに人生で初めて、太宰治について書いています。 昔、ぼく自身がやっていた日本近代史という分野が歴史学にはあって、そこで仕事をしているかぎり太宰治を論じるってこと自体が起きないんですが、よく考えると奇妙な話ですよね...

SNSもインフルエンサーも、本来は別に悪いものじゃないし、毎日をキラキラと暮らせるのは素敵なこと。だけどそれが、こうした文学の感性を軽んじる社会とくっつくと、途方もなくマイナスな副作用が起きちゃう。

私が揶揄を込めて「センモンカ」と書くのは、実際には専門知よりもインフルエンスを優先している「専門家」のことですが、なんでそんな人がはびこってしまうのかも、先日の『公共』教科書インタビューで述べました。

世界は無根拠、だけど怖くない 與那覇潤氏インタビュー - 教育図書
アメリカでトランプ氏が再び大統領に選ばれ、日本では新たな総理が誕生しました。「公共」科目が始まった2020年代前半を振り返ると、コロナ禍のロックダウン、ウクライナ戦争、パレスチナ紛争をめぐる議論など、これまで「正解」とさ

いまSNSで発信する言論人は、単に読者(フォロワー)のアバターになっています。TVゲームの中で使う「キャラ」みたいなものですね。「このキャラは強そうだぞ」という著名人を見つけてフォロワーになり、論争で勝ったのはその人であって自分じゃないのに、あたかも「キャラを操って敵を倒した」かのような快感を味わう利用者が増えました。
(中 略)
自分には価値がなく、発言してもどうせ誰も聞かないと思っているから、すでにインフルエンサーとして力をもつ人の子分になる。勝手にその人に自分を投影して、「代わりに」戦ってもらっている気になり、あたかも自分が勝ったかのように錯覚する
こうなると勝ち負けがはっきりつくことが大事なので、穏当な妥協よりも極論がウケてゆきます。むしろ、常識ではあり得ない極端な主張を「自分たちフォロワーが応援して勝たせた!」となった方が、盛り上がりがMAXになる。

ここまで来ると学者としてはおしまいで、フォロワーを惹きつけるには専門知よりもキラキラ感の方がはるかに「効く」ので、いつしか発信の中身も研究とは無縁な、インフルエンサーのインスタと変わらなくなっていきます。「あっ!」と思いつく事例、ぶっちゃけ色々あるでしょ?(笑)

「読み書き」するほど賢くなくなる人は、どこが問題なのか|Yonaha Jun
ぼくも隔月で載せていただいている『文藝春秋』の書評欄で、平山周吉さんが、その月でイチ推しの新書を紹介するコラムを持っている。 もうすぐ次の号が出ちゃうのだが、11月号では「大げさに言えば、「国民必携の新書」」として、佐藤卓己先生の『あいまいさに耐える ネガティブ・リテラシーのすすめ』を挙げていた。民主党への政権交代が...

というわけで、学問なんて踏まえないインフルエンサーを「反知性主義だ」と貶し、博士号ありのセンモンカを持ち上げても、世界の問題はなにも解決しません。でもそれなら、誰もが持つ承認欲求の果てに引き込まれたこの現状から、どうすれば出られるのか?

その手がかりも、『週刊新潮』記事と『公共』教科書インタビューでは紹介できたと思っています。多くの読者の目に触れますなら幸いです!

参考記事:

特定のメンタルの「病名」を、キラキラさせるのはもうやめよう。|Yonaha Jun
今年の2月に「「発達障害バブル」はなにを残したのか」という記事を書いた。2015年頃から流行してきた、精神疾患の中でも発達障害だけは「ギフテッド」(恵まれた特性)で、特殊な才能と一体なのだといった論調に、警鐘を鳴らす内容である。 いわゆる日本社会の「同調圧力の強さ」に対して、いやいや、自分の個性を認めてくださいよと...
キラキラ・ダイバーシティの終焉:オープンレター「炎上」異聞
昨年末の12月29日に連載を完結させて以来、私からは言及してこなかったオープンレター「女性差別的な文化を脱するために」(2021年4月4日付)が、今年に入って大炎上を起こしている。レターの内容と運用のどこに問題があるのかは、すでに同...

編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年12月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください