シリア情勢と『アラビアのロレンス』と「サイクス・ピコ協定」

先日、海外出張を行った際、シリア情勢のことが気になり、飛行機内で映画『アラビアのロレンス』を視聴してみた。混沌とするシリア情勢を見て、中東の歴史を捉え直さなければならない、と思っていたところだったからだ。

『アラビアのロレンス』とは、言うまでもなく、アラブ人とともにアラブ独立闘争を戦った実在のイギリス陸軍将校「ロレンス」を描いた映画だ。第一次世界大戦の最中の1916~17年頃の物語である。

映画「アラビアのロレンス」より

第一次世界大戦まで中東を支配していたのは、オスマン帝国である。ロレンスは、母国の政策に合致する形で、敵国のオスマン帝国の中東支配を掘り崩すために、アラブ人とともに戦った。あるいはアラブ人を焚きつけて、「トルコ人(Turks)」と戦わせた。

ロレンスが駐留していたのは、大英帝国が支配していたエジプトのカイロだ。しかしそこから東の中東のアラブ人地域を支配していたのは、オスマン帝国であった。ただし厳密に言えば、オスマン帝国が支配していたのは、地中海沿岸から紅海沿岸にかけての沿岸部だけだった。

そこでロレンスは困難な砂漠の移動を敢行して、海岸に向けて守りを固めていたアカバのオスマン帝国軍に、砂漠側から奇襲攻撃を仕掛けた。この作戦は、大成功を収めた(アカバとは、現在のヨルダンに位置する港湾都市で、シナイ半島とアラビア半島の間で紅海を望む要衝)。アカバを陥落したロレンスのアラブ軍は、勢いに乗って次々とオスマン帝国軍に対して軍事的勝利を収めていく。そして現在のシリア領に南部から侵攻し、遂にダマスカスを攻略する。

ダウアーやタファスといったシリア南部の地名は、今月の2024年アサド政権崩壊の際にも、南部「合同作戦室(Joint Operations Room)」が蜂起した地域の町の名称として、耳にした。ロレンスのアラブ軍も、これらの町を通過して、イギリスの正規軍よりも早くダマスカスに駆け上った。

しかしダマスカスを陥落させた後、アラブ軍は、内部で部族闘争を始める。中東での勢力争いを、アラブ人同士が始めたのである。ロレンスは、その状況に嫌気がさして、中東を去った。

その頃、オスマン帝国の崩壊を見越して、イギリスとフランスの間で交わされた密約が「サイクス=ピコ協定」である。この協定が結ばれてからちょうど100年目となった2016年に公刊した著作の中で、池内恵教授は、次のように書いた。

『結局、サイクス=ピコ協定が諸悪の根源だ』近頃、こういったフレーズをよく聞くようになった。中東の混迷の原因は何なのか。いったい誰が悪いのか。誰もが自然に思い浮かべる素朴な疑問や義憤に、単純明快な答えを見つけたような気にさせてくれる万能のマジックワードが『サイクス=ピコ協定』である。

池内恵『サイクス=ピコ協定百年の呪縛』[新潮選書、2016年]19頁)

なぜ「サイクス=ピコ協定」が悪いのかと言えば、イギリスとフランスが、中東をそれぞれの統治領・勢力圏に分断してしまったからであり、その分断の過程で、後に紛争の火種となる中東域内対立の構図も作ってしまったからである。現在のシリアに対応する地域は、フランスの勢力圏と定められ、他のイギリスが支配するアラブ人地域とは切り離された。

サイクス=ピコ協定 Wikipediaより 濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領

第一次世界大戦終結後にオスマン帝国が崩壊すると、「サイクス=ピコ協定」にそって、現在のシリア領の地域は、フランスが占領した。

シリアが正式に独立国となるのは、第二次世界大戦後のことである。ただし独立後のシリアは、アラウィー派やドゥルーズ派が独立を求めて民族間紛争を引き起こしたり、首都ダマスカスでクーデターが繰り返されたりする政情不安な時期を長く経験した。

1970年のクーデターで成立したバアス党政権が、ハーフィズ・アル=アサド大統領の独裁体制を作り出していくと、今度は世界有数の強権抑圧体制の国になった。

ハーフィズ氏と次男バッシャール氏 Wikipediaより

もし「サイクス=ピコ協定」が「諸悪の根源」だとすると、「アラビアのロレンス」が活躍した1916年よりも前の時代が、今よりも望ましい中東だったことになる。それは、ロレンスのアラブ人が倒してしまった「トルコ人」が支配していたオスマン帝国の時代の中東のことである。

第一次世界大戦戦後の領土変更(1923年時点) Wikipediaより

オスマン帝国は、多民族共存の帝国であったと言われる。もっとも帝国とは、ある民族が他民族を支配して作っていくものなので、たいていは多民族共存の統治体制の仕組みも持つ。オスマン帝国の場合、それは「トルコ人」の帝国であったが、アラブ人をはじめとする中東の諸民族の多民族共存を標榜した統治体制のことでもあった。

2024年、北と南の旧オスマン帝国統治地域から入ってダマスカスのアサド政権を倒した勢力の主力であったHTS(ハイアト・タフリール・アッ=シャーム:シャーム解放機構)やSNA(シリア国民軍)は、トルコの支援を受けた勢力だ。

トルコは、現在のシリアに、最も大きな影響力を行使できる国である。ただしHTSが主導する暫定政府は、多民族共存のシリアを標榜している。トルコ政府もそれを後押しするという。ただし、そう言いながら、トルコは、明らかにシリア北部のクルド人支配地域の縮小化を狙っている。トルコの意を受けたSNAがクルド人のSDF(クルド防衛軍)と衝突している状態になっている。

トルコのエルドアン大統領が、「トルコはトルコよりも大きい」と発言したことが、話題となっている。トルコより大きいトルコとは、つまりオスマン帝国のことだと言ってよいだろう。現在のトルコという国家の領土を広げることは狙わないが、旧オスマン帝国領地にそって、トルコは勢力圏を広げることは狙う。エルドアン大統領が言ったのは、そのようなことだと解釈せざるをえない。そこには「トルコ人が支配する多民族共存帝国」のイデオロギーも見え隠れする。

かつて19世紀にオスマン帝国は、南下政策をとるロシアと戦争を繰り返した。だが結局は最終的にオスマン帝国を崩壊させて中東を支配したのは、アラブ人を焚きつけたイギリスやフランスという西欧諸国であった。

アサド政権下のシリアでは、トルコの影響下の勢力と、ロシアに支援されたアサド政権軍が、対立していた。アサド政権が崩壊した今、シリアを自国の勢力圏に置くかのような勢いのトルコは、クルド人勢力を目の敵にしている。それを知りながらクルド人勢力を支援しているのはアメリカであり、そこにシリア領ゴラン高原を占領してしまったイスラエルが連携を目論む。そこでトルコとロシアは、慎重に正面衝突を避ける微妙な距離感をとっている。

中東で影響力を拡大を目論むエルドアン大統領(左)と中東の拠点シリアを失ったロシアのプーチン大統領 2022年8月5日クレムリン公式サイトより

アサド政権崩壊までは、あたかも共闘関係にあるかのように見えたトルコとアメリカ・イスラエルは、今は厳しくにらみ合っている。

エルドアン大統領は、オスマン帝国の二の舞にならないように、現地代理勢力を焚きつける米国・イスラエルの動きを警戒している。イスラエルは、イランを最も主要な敵としてアサド政権崩壊に協力しながら、今はオスマン帝国の復活を夢見るかのようなトルコの動きを警戒している。アメリカは、イスラエルを守る立場から、代理勢力としてのクルド人の支援に熱を入れている。この状況で、欧米諸国と対立しているロシアは、トルコとは対立したくない。

もし歴史が繰り返されるのであれば、外国勢力を排して、土着の政体を打ち立てようとするアラブ人たちは、やがて部族・宗派対立を展開させる。あるいは外国勢力に焚きつけられて、望まない内部対立の負の連鎖に引き込まれる。

このシナリオを避けるには、外国勢力の利益調整も見据えたシリア国内諸勢力の利益調整が必要である。ただし、残念ながら、それは簡単なことではない。

結局のところ、「第二のオスマン帝国」も「第二のサイクス=ピコ協定」も、もちろん上手くいかないだろう。しかしいたずらに外国勢力を排する主張を声高に唱え続けてみたところで、諸国が介入してくる厳しい現実は進展していく。

シリアは、ユーラシア大陸が地中海世界と交わってから、アフリカや紅海・インド洋地域へと抜けていく回廊の中枢を占める要衝にある。砂漠又は海を通るのでなければ、シリアを無視して大陸を抜けていくことは著しく困難だ。

シリアの複雑方程式を解いていくには、時間が必要だ。

篠田英朗国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月2回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。