坂本龍一監修ピアノ楽譜集『04』『05』が20年の時を経て再刊されたタイミングで、YouTubeには両楽譜収録のピアノ演奏がアップされているのに先週気づいた。
ちなみに公式のものだ。全28曲。日本国外からは視聴できないようだ。
ニューヨークを拠点とする「世界のサカモト」も、実際にはアメリカ音楽市場には根付くことができずに終わった。
映画「ラストエンペラー」のサウンドトラックで米アカデミー作曲賞をはじめ数々の賞に輝いたのを追い風に、翌・平成元年にはヴァージン・レコード・アメリカと契約してアルバムを二枚出したものの、どちらもヒットチャート入りは果たせなかった。
その後、同社が経営不振でEMIに身売りしたのをきっかけに、彼もまた日本の東芝EMIと契約。しかしYMO再結成(1993年)というビッグイベントを除けば、ドラマの主題歌がそこそこのヒットどまり。ワーナー・ミュージック・ジャパン移籍後も、ドリンク剤のCM曲が馬鹿売れした以外に、これといった反響を呼ぶことはなかった。「世界の~」と言われ続けた彼も、現実には終始、日本の音楽市場ニッチに頼り続けたのだった。
この『04』『05』も、当時在籍していたワーナー・ジャパンより、もっとこじんまりした日本国内レーヴェルに移るにあたっての、お別れの置き土産的なものだったともいえそうだ。
あの代表曲もアップ
彼の一番人気曲といえば、これ。
これを弾けば下手でも上手でもまわりから一目置かれてしまうという名曲。
これのピアノ・ソロ楽譜は、作曲者そのひとによる監修版が、少なくとも三つある。
ひとつは同題の映画公開と同じに刊行されたもの。(ご本人よるピアノ演奏録音もカセットブックとして別の社から出た。1983年)
ひとつは先日20年ぶりに再刊された『04』収録のもの。
もうひとつは作曲者の公式サイトで販売しているもの。亡くなる数か月前にウェブ配信された「戦メリ」は、これ準拠での演奏だった。
実は私は、この三つ目の楽譜は、あのお別れ配信での「戦メリ」演奏を彼が自ら採譜したものだと思い込んでいた。
そうではなかった。自分の命が残り少ないことを思って、前より代表曲をひとつひとつ推敲していた、その「戦メリ」楽譜を弾いたものだった。
「ぼくは88の夢をうつ」
昭和58年版、いわゆる『Avec Piano』版は、演奏が先だった。
当時の様子を、当時の担当編集が生き生きと綴っている。
この編集さんがその場の思い付きで口にしたアイディアに、若き龍一がぱっと反応して、楽譜を書きだして、そのままピアノに向かって弾いたのが、これだったのだとか。
もとは映画のサウンドトラック用に作られた曲だ。プロフェット5というアナログ・シンセ(つまみをひねって音色を変えていける鍵盤キーボード)を使って、多重録音で作られた。
これを作曲というか多重録音で完成させるにあたって、彼は数枚のスケッチしか事前に用意していない。
自宅のピアノで、朝起きてちゃちゃっと三つのモチーフを思いついてメモって、そのひとつがメインテーマにいいぞと即断して、それをもとにちゃちゃちゃっと8小節のスケッチを記して、それを再度弾いてみて「うーんなんかちがうなー」と(おそらく)つぶやきながらオタマジャクシを少しいじって…
そんな風に、おそらく一時間もかかっていなかったのではないか。
当時の作曲スケッチから
あの旋律とその和音が、音符とコードネームで書き込まれている。
しかし、三つ目の小節をよく見ると、今の私たちが知っているのとは少し違う。
♪ レミレドラ~
このスケッチの続きを追っていくと、例の間奏部が現れる。
♪ラソラソーラ、ラ
♪ レミレドラ~ で終わる旋律が二回繰り返されて、間奏部(青の部分)にバトンがわたる…
弾いてみるとわかるが、完成版に比べると流れが良くない。
作曲者もそう思ったのか、その後のスケッチでは旋律の一周目では締めが ♪レミレラド~、二周目で ♪ レミレドラ~ になるよう整えられている。
今の私たちが知っている、あの旋律だ。
そういえば ♪ド、シソミ~ もこのとき現れている。
最初のスケッチでは「B♭」のコードネームがぽつんとあるのみ。つまり、このスケッチその2で旋律が付いたのだ。
「朝起きてピアノに向かったらそこにもう曲があった」(私のうろ覚えによる彼の発言引用)というのは、少々話を盛っているように思われる。
実際は音を鳴らしながら、試行錯誤もしていたのだから。
※ 作曲スケッチはいずれも『坂本龍一の音楽』(山下邦彦/東京書籍)の「戦メリ」章より引用
メモのなかに全曲がある
これがスケッチその3。ひととおりできあがり。
ここから先は、銀座一等地の音響スタジオでアナログ・シンセのつまみをいじりながら音色を調合し、上のスケッチを除けば何も参照しないで、多重録音で曲に仕上げていったものと思われる。
映画音楽は、スタジオで録音するにあたって譜面を完全用意するものなのだが、彼は「戦メリ」でそういうことはしないで、シンセ機材をパレットにして絵の具ならぬ音色作りに時間を費やした。
面白いとは思わないだろうか。オリジンと呼べるものがないまま作曲されたものが、後に作曲者そのひとによって(ピアノカヴァー版として)楽譜が用意されて、今ではそれがオリジン扱いなのだから。
グールドが亡くなった後
バッハが殿様のために、その不眠症をなだめる曲を作って、それはもともと二段式鍵盤のチェンバロで弾く曲だったのを、カナダの天才肌ピアノ奏者グレン・グールド(1932〜1982)がピアノ(つまり一段式鍵盤)による新解釈で弾きこなしたレコードが大評判になったという逸話は、クラシック愛好者には定番の小ネタである。
バッハ監修の楽譜を、ずっと後世の神童グールドが演奏したわけが、今度はその演奏をどなたかが採譜したものが発売されている。
ややこしい話だ。それはバッハの曲である前に(グールド本人は採譜にも刊行にも一切関与していなかったようだが)もはや彼の楽譜なのである。
なるほどショパンの楽譜についても、本人が最終チェックした「正規版」と、彼が弟子たちに自分の曲の演奏を指導した際の書き込みをもとに後世の音楽学者たちが整えた「解釈版」の、二系統がある。
しかしこれは、ショパンの演奏録音が残されていないからだ。当時は録音と再生のテクノロジーが影も形も、そもそも夢想すらされていなかった時代ゆえに、後世の私たちは、永遠に「正しい」ショパンを追い続ける。
一方、グールドは生演奏を嫌った。代わりに大量の録音演奏を残した。彼は作曲家でもあったが、ブラームスの亜流に終わった。
夏目漱石の「草枕」(の英訳)を生涯のバイブルにしたという、この孤高のピアニストが亡くなったのは、奇しくも坂本が映画「戦場のメリークリスマス」のサウンドトラック制作のためにスタジオにこもり切りとなる、一か月前のことである。
「戦メリ」(昭和版)はどうだろう
その翌年、映画公開と共に発売されたピアノ楽譜集『Avec Piano』を見ると、シンセのように音を多重多層的に重ねていく音作りはピアノそれもソロ演奏では不可能は承知のうえで、それをピアノ鍵盤に翻案するにはどうしたらいいかという難題を、エリック・サティの書法で答えていくチャレンジだったように思える。
電話対談集『長電話』のなかで彼は「演奏録音終了後、採譜はひとにやってもらったんだけどまるでだめで、しょうがないので自分で一からやっていった。即興演奏的なものを、いちいち音符にくそまじめに書き留めていくのは少々虚しかった」の意の発言を残している。
あの「戦メリ」楽譜は、演奏のほうが先で、あの楽譜じたいは、自分自身の演奏を、最新録音技術ではなく五線譜というオールドテクノロジーでどこまで正確に書き残せるかという、時代倒錯的(そして彼にとってはきっとポスト・グールド)なチャレンジでもあったのかもしれない。
平成16年の「戦メリ」
『04』版はどうだったか。録音風景を眺めると、楽譜準拠では弾いていないようだ。
ピアノの上で大きな五線譜に(左利きで)いろいろ書き込んでいる様子がうかがえる。演奏が主で、つまり実際に奏でられる音が主役で、それをメモっているような感じ。
あくまでメモで、採譜は録音終了後に自ら行ったのだろうか。
令和、最期の「戦メリ」
これは、先ほども述べたようにすでに本人によって磨き上げられた楽譜があって、それを演奏したものだという。
このとき使われた楽譜が、彼にとっては至極最高の「戦メリ」で、それを残された体力を精一杯使って完璧に演じ切るぞという、そういう演奏姿勢だったように思える。
彼にとっての、である。
実はこの曲、歌ものとして企画されていた。映画「戦場のメリークリスマス」のエンディング歌として、小田和正に歌ってもらうというアイディアもあったそうだ。
最終的には、イギリスの(当時行き詰っていたという)天才ヴォーカリストのデヴィッド・シルヴィアンによる歌付きものが「禁色」(Forbidden Colours)として、映画でこそ使われなかったがサントラ最終曲として納められ、イギリスではシングルカットもされた。
あの国では今でも「禁色」のほうが原曲だと思っている者がいるという。
この歌付き版には、シルヴィアンの強い志を感じる。その旋律ラインの素晴らしさに感動した坂本は、以後この曲の器楽演奏において、シルヴィアンのヴォーカルと同じ副旋律を、必ずあの主旋律といっしょに奏でたという。
「戦メリ」の歌付きカヴァーをいろいろ拝聴するに、果たしてこの志があるのだろうか?
彼が消え去って二年目のクリスマス。どうか皆さんにも聴いて、考えてみてほしいと願う次第である。