ローマ教皇、「聖年」の幕開けを宣言

ローマ・カトリック教徒でない人にとって関係がないことかもしれないが、バチカンは24日、新たな「聖年」の幕開けを宣言する。「聖年(Holy Year)」とは、カトリック教会において特別な霊的恩恵を受けるための年を意味し、ローマ教皇によって宣言される。「聖年」は、罪の赦し(免償)を得たり、信仰を深めたりするために設定される特別な年で、カトリック教会の伝統ともいえる。多くの信者がバチカンや他の指定された聖地を訪れ、赦しを求めるために懺悔をし、祈りや慈善活動を通じて、信仰を再確認する機会という。

ウィーンのカールス広場のクリスマス市場(2024年12月19日、撮影)

ローマ・カトリック教会で最初の「聖年」(1300年)はローマ教皇ボニファティウス8世によって宣言された。当時、多くの信者がローマに巡礼した。それ以降、通常聖年(Ordinary Jubilee)は25年または50年ごとに祝われ、特別聖年(Extraordinary Jubilee)は教会の状況や必要性に応じて、通常の周期とは別に宣言される。例えば、2015年から2016年にかけてはフランシスコ教皇が「慈しみの聖年」を特別に宣言している。なお、2025年の「聖年」は通常の周期に基づくもので、「希望」というテーマが選ばれている。

「聖年」の幕開けは、ローマ教皇が大聖堂にある「聖なる戸」(Holy Door)を開ける象徴的な儀式から始まる。これは、神への道が特別に開かれる象徴とされている。世界中から多くの巡礼者がローマを訪れ、教皇主催のミサや、平和、希望、連帯に焦点を当てたイベントなどに参加する。「聖年」はカトリック教会の信者にとって、信仰を再確認し、心の刷新を行う絶好の機会といわれている。また、巡礼や慈善活動を通じて世界的な連帯を感じるイベントともいえるわけだ。

バチカンからの情報によると、24日午後7時、フランシスコ教皇は聖ペトロ大聖堂で厳粛な儀式を通じて「聖なる扉」を開き、2025年の聖年が公式に開始する。この後、教皇は聖ペトロ大聖堂で伝統的な「クリスマスのミサ」を執り行う。クリスマスの大祝日の25日正午、フランシスコ教皇は聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーから「ウルビ・エト・オルビ(ローマと全世界への祝福)」を宣布することになっている。

フランシスコ教皇(2023年10月2日、バチカンニュースから)

バチカンは2025年の「聖年」のテーマに「希望」を選んだ。確かに、私たちは「希望」に飢えている。コロナ・パンデミックで世界で700万人以上が犠牲となった。その直後、ロシアのウクライナ戦争が始まり、戦火は中東に飛び、イスラエルとパレスチナ自治区ガザのイスラム過激派組織「ハマス」との間で戦闘が始まり、レバノンに拡散し、中東全域を紛争に巻き込んでいる。紛争や戦争だけではない。世界至る所で貧富の格差は拡大する一方、情報は溢れ、心の安らぎを見出すことが容易ではなくなってきた。連帯、共存より、競争と奪い合いが繰り広げられ、相手を批判することが傾聴することより評価される。

私たちは今、持続的な「希望」を必要としている。閉塞感を乗り越え、明日に対する希望をどこに見つければいいのだろうか。激動の2024年はまもなく過ぎていく。25年の「聖年」の「聖なる戸」を開ければ、全く新しい世界が生まれてくる、ということはないだろう。だとしても、人間は、息を吸い、食事を摂取しないと生きていけないように、持続的な「希望」を必要としている。カトリック教会が25年周期で「聖年」を宣言し、過去を悔い改めて神への信仰に立ち返る儀式を挙行することは教会の知恵というより、人間が定期的に出発点に戻り、再スタートすることが必要であることを裏付けている。

ちなみに、ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、私たち人類を「神殺害の犯罪者」と言い切った。神を殺したことで人類が持続的な「希望」を失ってしまったとすれば、何はさておき「神」と和解し、「希望」を取り戻すべきだろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年12月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。