(前回:私的「中国この30年」論④:4兆元投資で変質が決定的に)
正月休みも終盤だから、この連載もそろそろ幕引きすべきだろう。ここまでは主に経済に焦点を当てて「中国この30年」を個人的体験を交えながら論じてきたが、連載の出だしは「中国民主化の可能性」だったので、政治にも触れないと尻切れトンボになってしまう。
・・・という訳で、今回は政治編。
いま中国は「共産党独裁」の政治体制を採っていると言われるが、その内実もこの30年の間に随分変化した。
2000年代半ばまでの政治体制は、党の内側では「自由さ」も残る独裁体制だったと言える。毛沢東の個人独裁がもたらした文革の大災難に懲りた共産党は権力を分散させる「集団指導体制」を敷いた。
トップの権力が絶対化することのないよう7~9人の政治局常務委員(と舞台奥の党長老たち)が合議で政治を進める体制だ。国家主席の任期も憲法で「2期10年まで」と制限され、「トップは後継者を指名できない(代わりに次の次のトップを指名する)」という不文律も取り入れられた。
地方でも、中央が地方指導者たちに「成長してGDPや税収を上げろ、成果を上げた者を出世させる、具体的なやり方は任せる」というシンプルな成果競争をさせたので、この頃の地方には、裁量権を与えられて外資企業の誘致に思う存分力を振るう党の地方書記や首長が大勢居て活気があった。
ただし、この競争の仕組みは経済成長に多大の貢献をしたが、同時に、成果評定の対象外の領域では農民の収奪(涙金の補償金で土地を取り上げる)、人権侵害、環境破壊など幾多の問題を引き起こす結果となった。
この時期の「自由さを残す独裁体制」は、途方もない腐敗・汚職、「部門」既得権益の跋扈などの弊害をもたらした。特に権力集中を避ける仕組みの下で生まれた弱いトップ、胡錦濤主席の時代には、そんな弊害が中央でも頂点に達した。9人の政治局常務委員は、トップの指示に従おうとせず、それぞれの担当領域が「独立王国」と化した(石油王国、電力王国など)。
果ては党内コンセンサスで内定した次期トップ習近平になり代わって、自分がトップに座る野望を抱いた薄煕来(当時重慶書記)がクーデターまがいの陰謀を企む衝撃的な事件まで起きた。これが「体制の危機」でなければ何だろう?
このように、習近平氏の治世は、喩えて言えば「墜落しかけの飛行機のコックピットに座る機長」のようなところからスタートした。
その後、習氏が「蠅も虎も捕まえる」反腐敗から始めて権力を握り、人事を通じて軍を含む全権を掌握し、憲法を改正して多選の途を拓いて今日に至るのは、昨今誰しも知るところだ。
全権を掌握した習近平氏は、逆らう者とて居なくなった無風状態で思うまま権勢を振るっているのか…そういう風には見えない。
いま共産党と政府は、口を開けば、「党中央の指示に従え、言いつけを守れ」を繰り返している。
同時に、社会の不満の矛先が政府に向かうことを恐れて、「舆情」(意訳すれば「世論動向」か)の統制に多大の労力を費やしている。各級地方政府に加えて、学校、企業など様々な組織、職場に舆情統制の担当部署を設けさせて、「持ち場で騒ぎを起こさせるな、予防しろ、万一起きたら直ちに鎮静化させろ」を徹底している。
言論の取り締まりは上からの強制力だけでなく、「持ち場で騒ぎが起これば自分たちのクビが飛ぶ」と神経を磨り減らす思いで行っている自己規制の両面から行われており、中国の社会、世相は、10年前には思いも及ばなかった重苦しさに包まれている。
宮沢総理は「今後の経済発展につれて、中国に民主化が定着していくとは限らない」という懐疑論を述べた。習近平氏の今の治世は、まさにそのとおりになった訳で、宮沢総理の炯眼を思う。「中国道」に入門したての頃の私にとって、こんな展開は思いも寄らなかった。
しかし、入門後30年を経過した今の私は、一方で今のような治世が中国の「歴史の終わり」にはならないと思う。
※ 「歴史の終わり」という表現はソ連の解体、冷戦の終結をみたフランシス・フクヤマが「国際社会で民主主義と自由経済が最終的に勝利した」と考えて唱えた「歴史の終わり」を想起して使っている。
在米の中国人経済学者、程暁農(Cheng Xiaonong)は「中共やソ連の政体は個人集権と集団指導の間を振り子のように揺れ動く」と唱えている (以下は要旨)。
個人集権の時代は、急激な工業化や軍隊建設を行うために国民に耐乏生活を迫り、党内の異論を封殺するために、個人崇拝や反対派の粛清を繰り返すので、社会に深刻な後遺症をもたらす。
個人集権の後には、後遺症を癒して政治の安定を図るために集団指導制がとられる。民心の安定を図るためにカネを使い、幹部の腐敗が蔓延する高コスト統治モデルが採用される。そうすると、今度は腐敗や金権主義などの弊害が深刻化する。
そうすると、再び体制を救おうとする救世の英雄が出現して、個人集権を復活させる……
習近平氏の「個人集権」も、「教科書に出てくるような」負の側面が目につき始めた。今後経済が停滞していくにつれて諸矛盾は深刻化していき、中国という振り子は集団指導の方向に振れ戻そうとする運動モーメントを蓄え続けていくだろう。つまり、民主化から離れて実現した習近平氏の個人独裁は、何時までも続けられる訳ではないということだ。
中国が個人集権と集団指導の間で揺れ動くのなら、バランスの良い中間地点を見つけて、そこに収斂(しゅうれん)すれば良さそうなものだが、不幸なことに、大国中国は「分権」を取り入れて平らかに治まった歴史的経験をしたことがない。
振り子の振れ戻しに伴って、中国と中国人が大乱に見舞われないことを願う。そうなれば、近隣の我々もタダでは済まないからだ。
編集部より:この記事は現代中国研究家の津上俊哉氏のnote 2025年1月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は津上俊哉氏のnoteをご覧ください。