少数与党政権のもと、「選択的夫婦別姓」の議論が活発になっている。「103万円の壁」によって野党の中で頭一つ抜けた感のある国民民主党に負けじと、立憲民主党がその実現に向けて気を吐いている。
1996年、法制審議会が選択的夫婦別姓導入に言及した「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申した。以来、自民党保守派の反対で導入は店晒し状態であったが、「裏金」問題への関与のためにその影響力が弱まっている今、“山が動く”好機かもしれない。
とはいえ、「選択的夫婦別姓」は「手取りを増やす」ほどには世論の支持を集めていないように思われる。NHKが昨年4月に行った世論調査では、選択的夫婦別姓に「賛成」62%、「反対」27%と賛成が反対を大きく上回った。
ところが、通称使用という選択肢を加えて実施された産経新聞とFNN合同の直近(本年1月18日・19日)の調査では、「夫婦同姓制度を維持した上で、旧姓の通称使用を広げる」が45.2%と、「賛成」37.5%と「反対」14.7%を上回った。半数近くの人は、旧姓使用で事足りるので選択的別姓を制度化する必要はないと考えているのである。
実際、社会で活躍する女性の中にも通称(旧姓)使用の拡大・整備で十分という声はあるようだ。
1月20日に放送されたNHKクローズアップ現代「令和のいま“苗字”を考える」に登場した北海道の医療大学に通称名で勤務する女性教員は、論文も通称名で発表でき、また事務的にも大学の手厚い協力があるので、不自由や不便を全く感じていないばかりか、2つの名前の使い分けをむしろ楽しんでいる様子であった。
私事で恐縮であるが、かく言う私も、通称名と戸籍名を使い分けるようになった当初、芸能人にでもなったような、ちょっと浮かれた気分になった。ところが、仕事で多少ながら業績を上げ、職業人としての自信と誇りが増すようになるにつけ、使い分けが自分の中でどうにも収まりが悪くなってきた。
たとえば、税金や社会保険料は通称名によって稼ぎ出した給料から納めているにもかかわらず、その名義は給料とは関係のない戸籍名、仕事の実績を蔑ろにされたようで何だか釈然としない。
職業人としての自己は私の中で大きな部分を占め、私のアイデンティティにとって絶対に切り離すことができない部分だ。戸籍名を名乗らなければならない時、職業人として社会でそれなりの地歩を築いている自分が無視され、アイデンティティを半分喪失したような気分になって、苛立ちを覚えるようになった。
2つの姓の使い分けは、どっちの姓を使っていたのかうっかり忘れることがたまにあるものの、行為としては難しいことではない。だが、心理的には鬱陶しく、気分をドッと落ち込ませてしまうものなのである。
こうした感情は、得てして気持ちの持ちようとか、考えすぎ、はたまた捻くれたエゴイズムだなど捉えられ、軽視されがちである。しかし、果たして取るに足りない事柄として一笑に付すことができるだろうか。というのも、名前は人が社会における自己の存在を自認するための言わば証明書として機能するからである。
たとえば、子どもが生まれると何をおいても名前をつける。名前は家族にとって子どもを唯一無二、かけがえのない存在として認識するための記号となる一方、子どもも自分に呼びかけられるその名前を通して自己を認識していく。
仮に子どもがXとYの2つの名を付けられ、ある時はX、別の折にはYと呼ばれるとしたら、どうであろう。この方面の素人ながら、自己認識が混乱し、アイデンティティ形成にダメージを与えるに違いないと想像できる。
名前は、人と社会を結ぶ「インターフェイス」であり、その人の全人格と一体化し、決して切り離すことができないアイデンティティのコアである。従って、アイデンティティの揺らぎは、人を不安に陥れ、心を不安定にする。
子どもと違い、人格形成の出来上がった成人に重大なダメージを及ぼすことはないかもしれない。しかし、仕事と家庭、地域の全存在からなるものこそが「私」であり、いずれが欠けても「私」ではない。長期にわたる2つの姓の使い分けは、「私」の存在意義に揺らぎを惹き起こすのではないだろうか。
選択的夫婦別姓は、不自由さや不便さだけでなく、社会的存在としての人の尊厳を護るという観点からも議論してもらいたい。