公明党の機関誌『公明』の2月号は、特集「現役世代に光を当てる」。7ページに文字びっしりの私のロング・インタビュー「政治家は「インフルエンサー」になってはならない」も載っています。
私は公明党員でも創価学会員でもありませんが、同誌への登板は23年10月号の「少数派を誇りに、寛容と敬意の公明党であってほしい」に続き2回目。ホンモノのリベラルに耳を貸す政党が、日本に残っているのはありがたいことです。
ホンモノの定義ってなんやねん? という件については、上記の元日のnoteにも記しましたが、ひとつ大事な指標になるのは、「いまみんなが言ってる」「だから乗っかればバズりやすく、叩かれない」論調に寄りかかることなく、むしろ距離を置いて自分で考えているか、でしょう。
一般にはやや手に入れにくい媒体かと思いますので、少し詳しめに、いかなる「あたかも自明の通説みたいになってる風潮」を、むしろ批判する形で同誌にて提言したかを紹介します。
①「ケア」するのはいつでも善行か?
ここ数年、人文書の世界では「ケア」(配慮)という用語がマジックワードになってきました。要は、その言葉がポジティブな意味であることは自明で、使っておけば誰にも文句を言われない無難な褒め言葉として機能しています。
なんせ、恋愛小説を「あなたも素敵な異性を探したくなる」なんて褒め方したら、次の瞬間「同性愛者への差別ガー!」「アセクシュアルの排除ガー!」「社会的視点の欠如ガー!」みたいなガーガーが殺到する時代でしょ? なんで、なに読んでも「本作にはケアする優しさが満ちている」とか書いとくのが、安牌になってるわけです(苦笑)。
しかし、ケアと政治が結びつくと、場合によってはネガティブなことになる。なぜなら――
かつて、長期に及んだ安倍晋三政権の下で「やってる感」という用語がはやった。安倍首相は仕事をしている「感じ」をアピールするだけで、実は大した実績がないと揶揄する言葉だったが、そうした批判者が忘れていたのは、ケアは「されてる感」が全てだということだ。
(中 略)
ここに「ケア=自国の政府による配慮」を求める政治の特質と、難しさがある。気掛かりなのは、為政者が「極端な態度」を採ることで、「ここまでやってくれた!」とケアを得る有権者が増えていることだ。
そうした「極論によるケア」は、天然と打算とが半々の暴言を連発するトランプ氏の姿でおなじみだが、近日は日本でも類似の風潮が強まっている。
『公明』2025年2月号、8頁
(強調を付与し、段落を改変)
はい。安倍さんが靖国神社に参拝したのも、トランプが差別的なジョークを飛ばすのも、支持者にとってはそれが「ケア」だからです。ここを踏まえずにケアケア言ってると、「被害者をケアする」と称して加害者へのネットリンチに加わる人文学者になっちゃいますから、注意しましょう。
② SNSを使いこなす政党が「勝ち組」か?
昨年はSNSや動画配信を駆使した党や候補者が、予想外の成果を上げる例が多く、ネット選挙こそが「民主主義のブルーオーシャンだ」とする議論も増えました。また政治家に限らず、あの人は「いまやインフルエンサーだよね」というのも、新たな褒め言葉の定番になっています。
が、これがまたヤバいんですねぇ。昨年末の上記noteとも重なるテーマを、今回は違う角度から、ズバリ撫で斬りしています。
選挙で勝利した候補はしばしば、対立候補の支持者も含めた「全員のための政治家になります」とスピーチする。
しかし「アンチのためにも頑張ります」と発言するインフルエンサーは、誰もいない。彼らのファンは、「代わってアンチを罵倒する姿」を見ることでケアを得ている以上、そんなことをしたら離れてしまう。
(中 略)
実際には会ったこともないSNSの著名人に自分を投影し、「私の代わりに奴らを倒してくれ!」と没入してしまうのは、リアルの対人関係が貧しいことの裏返しだ。
対面の場であれば「大したことのない」ひとり一人にも発言権があるのに、そうした場所で承認を得た体験がないから、「すごい人」でなければ物申す資格はないのだと勝手にハードルを上げて、SNSで有力者の取り巻きを始めてしまう。
10-11頁
そうなんです。たかだか大学教員とかのセンモンカ程度でも、取り巻きに異論の持ち主を攻撃させて「アンチのいない」世界をめざそうと思い上がる人の目立つ昨今、同じことを政治家がやったら何が起きるかわからない。
第2次トランプ政権が発足し、X(Twitter)に加えてTikTokの北米部門も手中に収めそうなイーロン・マスクが政治に参画するいま、SNSの副作用は「ネットに限った話」ではもはやない。そう気づくことが大切です。
③ 現金給付は「最強の福祉」なのか?
これも近年、飽きるほど聞かされましたよね。いわゆる反緊縮ですが、「俺はリベラルだけど理想よりカネの話をする。なぜならリアルな政治を知ってるからだ(ドヤァ」みたいな話、散々あったじゃないですか。
彼らはもれなく、ニセモノでした。コロナ禍では「自由よりカネ!」と叫んで自粛を強要する空気を煽り、そのツケが後に弱者に及んで薬代がバカ高になっても、知らんふり。「ワクチンで死んだぁ? そんな人いるのぉ~?」と、人命よりカネ優先な態度だけは一貫してるみたいですが。
特にいま、公明党というと福祉を看板に「無償化」を謳う政党のイメージがあり、選挙の際もアンチとぶつかる争点になりがちです。しかし、そうした問いの立て方自体に、罠はないのか。
取材では、こうお話しさせていただきました。
万人が関心を持つ話題は金だけで、「とりあえず配るから後は各自バラバラでいいでしょ」とする姿勢は政治の自己否定とも呼ぶべき、最も貧しいケアのあり方だ。政治家が有権者に向かって「広く浅い手切れ金」をばら撒くようなものとも言える。1964年の結党以来、福祉を看板とする公明党がめざしてきたのは、そうした政治ではなかったはずだ。
子育て支援で言えば、すでに述べたとおり、いまや「結婚して子どもを持つ」というライフコース自体が自明ではない。生涯単身でいいという人も、結婚はするが子どもは欲しくないという人もいる。おそらくは性的指向が異性愛か同性愛かでも、捉え方に違いはあるだろう。
(中 略)
子育て予算を「ここまで多く引っ張った」と金額で実績を誇る姿勢では、容易に「子どものいない家庭はこんなに搾取されている」といった、180度逆の不満へと裏返る。
とりわけ心配なのは大学無償化だ。いまでも一部の極端な事例を挙げて、「生活保護の金はこんなムダに消えている」といったバッシングが報じられることは多い。間違いなく同様の形で将来、「私たちの税金で子どもを大学に行かせても、実際はこの程度」といった揺り戻しが起きるだろう。
そこまで見通した上で、全額税負担で支える価値のある大学や学問のあり方を考えている人が、どれほどいるだろうか。
12-13頁
もちろんそれぞれについて、「いや、自分は ”通説” の方に理を感じる」といった異論はあるでしょう。しかし自明視されている前提への批判でも、しっかり掲載してもらえるところに、正しい意味での中道政党の矜持を見た気がしています。
論壇に勝手な自主規制を敷き、誤りがわかっても「ニセモノへの批判は厳禁。バズって儲ける邪魔になるから」と居直る編集者さえ目にする昨今、貴重でありがたい体験となりました。ホンモノの言論を求める媒体にはどこでも出ますので、他誌・他党も含めて、よろしくお願いいたします。
(『公明』に掲載のヘッダー写真は、中村治さん撮影のものを使わせていただきました! 先日のイベントとも合わせ、御礼申します)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年1月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。