平賀源内は「山師」だった

現在(2025年)放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう」の主要登場人物の一人として、平賀源内がいる。源内はエレキテルなどの西洋器物の製作や蘭学の紹介、多彩な文芸活動などで知られるが、彼の本質は鉱山開発をはじめとする起業家であり、「山師」を自称した。そして彼の有力なパトロンが田沼意次だった。

けれども、源内が手掛けた事業の多くが経済的成功を収めることはなかった。窮状を打開するため、源内は文芸活動に乗り出す。特に明和六年(1769)以降、浄瑠璃や戯作、狂文などの執筆に力を入れるようになった。例えば、処女作となる浄瑠璃『神霊矢口渡』は明和七年(1770)正月に江戸外記座で初演され、同年には『源氏大草紙』や『弓勢智勇湊』といった作品を発表している。

これらの浄瑠璃作品が劇場で上演されても、大きな収入には繋がらなかったものの、正本を出版する本屋から原稿料のような形でわずかな金銭を得ることができた。

源内はまた、狂文や広告文の執筆も手掛けた。明和六年には歯磨き粉「嗽石香」の広告文を執筆し、その他にも『長枕褥合戦』や『痿陰隠逸伝』などの卑猥な作品も次々と発表した。これらの活動から得られる収入は少額だったが、生活費の足しとして重要なものだった。

とりわけ、鉱山事業における失敗が源内の経済的苦境を招いた。秩父地方の中津川村における鉄山事業は最も顕著な失敗例の1つである。

源内が鉱山事業に興味を持ち始めたのは、蘭学研究を通じて西洋の鉱山技術に触れたことがきっかけであった。彼は2度目の長崎遊学(1760年代末)でオランダ通詞(オランダ語通訳)から鉱山採掘や精錬に関する知識を得た。なお、この長崎行きは、幕府の実力者である田沼意次の支援を受けていた。

そして源内は江戸への帰路では摂津多田銀山を調査し、大和吉野の金峰山で試掘をするなど、鉱山開発にのめりこんでいった。これらの経験を経て、源内は「古今の大山師」と自負し、安永元年(1772)に江戸に戻ると秩父の中津川村での鉄山開発計画を本格化させた。

源内は中津川村の鉄山事業を、幕府の医官である千賀道隆らと連携しながら進めた。千賀道隆は田沼意次の愛妾「神田橋お部屋様」の養父であり、この事業の背景には、意次の鉄銭鋳造計画があったと見られる。

源内の鉱山事業には同村の名主・幸島喜兵衛や組頭・半右衛門ら地元有力者も協力し、安永二年(1773)春には鉄山の普請工事や「吹所」(精錬所)の建設が開始された。この鉄山では砂鉄の採取を行い、たたら製鉄を用いて鉄や鋼を生産しようとした。

しかし、この鉄山事業は早期から問題を抱えていた。最大の課題は精錬技術の未熟さだった。源内は精錬を何度も試みたが、「吹方熟し申さず」(妹婿の権太夫あて書簡)と自ら認めているように、良質な鉄や鋼の生産には至らなかった。石巻の鋳銭座で鉄銭(「仙台通宝」)の鋳造を行っていた仙台藩と交渉し、料鉄(鋳銭用の鉄材)を提供する計画を立てたものの、供給する鉄の質が低いため契約が進まなかった。

源内は周囲に対しては事業の成功を誇張して報告し、資金を集めようとした。一例を挙げれば、「上質の鋼鉄が生産できたので刀を鍛えて田沼様に献上した」と記した手紙が残されている。だが実際には生産された鉄の質が悪く、船釘や鎹(かすがい)にしかならず、鍛冶屋にも不評だった。そのため、販売が滞り、資金繰りが悪化していく。

源内は鉄山の経営を維持するために人員や資金を投入したが、幕府への運上金(税金)や地元住民への報酬の負担も大きく、安永三年(1774)にはついに事業が行き詰まり、鉄山は休山となる。中津川村の幸島家が残した『鉱山記録』には、「目論見人平賀源内大しくじり、これあるゆえなり」と記され、彼の経営失敗が明白に認識されていたことが分かる。

源内の鉱山事業の失敗は、鉱山技術に対する熱意とは裏腹に、事業運営に必要な計画性や経済的実務能力を欠いていたことを示していよう。また、彼の文人あるいは通人としての移り気な性格が、実利的で冷徹な経営判断を阻害した可能性もある。

田沼意次は民間の新規事業を積極的に認可して、幕府への運上金を増やすことで、幕府財政を好転させようとしていた。結果として、平賀源内のような、新しい知識や技術を持っていると自己アピールし、投機的な事業を持ち込む怪しげな「山師」たちを引き付けることになった。昨今も再エネ関係など、政府の「成長戦略」に便乗する形でうさんくさい事業者が暗躍しているとの批判もある。田沼政治の失敗に学ぶべきであろう。