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私の新刊、「論破という病」はサブタイトルが「分断の時代の日本人の使命」なんですが⋯
世界中が混乱してきてる中で、本当に「そういう役割」がこれから日本に求められる側面はあるなと感じてます。
で、それがどういう「役割」なのか?っていうのを、これから真剣にムーブメントとして形にしていきたい気持ちが自分にはあるんですね。
私はそういう志向性のことを「メタ正義」的方向と呼んでるんですが・・・
最終的には、本や記事や動画での発信やコラボレーションだけじゃなくて、新聞や雑誌のような旧メディアや、アカデミアの一部なんかとも共鳴して、大真面目なパネルディスカッションをやっていくような、そういう「共鳴関係」を作っていければと思っています。
そこの部分で明確な「新しいムーブメント」感を作っていくことが、色々と機能不全化してしまっている今の日本における議論を再度有効なものに立て直していくためにも必須だし、人類社会全体の中でのこれからの日本の役割を揺るぎなく打ち立てる事にも繋がると確信しているからですね。
日本社会にはこういう「能力」自体はバラバラにそれなりに存在してると思うけど、それが横に全然連携できていないので、本当に社会の各所で有志の人が孤軍奮闘してるだけになっちゃったりしている。
それを横に繋いでいくことで、「理想と現実」を双方向にシームレスに繋ぐ日本発の新しい社会運営方法にまで昇華していく必要があるというのが私の考えなんですね。
では、その「受けて立つリベラル」というのはどういうことか?という事を真剣に考えていきたいわけですが・・・
1. アメリカ型民主主義と欧州型民主主義の狭間に
例えば、上記記事で書いたような視点があります(未読の方はぜひ先に上記記事をお読みいただければと)。
今、ウクライナ戦争が終結に向かうにつれて、「アメリカ」型の民主主義と「欧州型」の民主主義の考え方の違いがぶつかりあっているわけですね。
「アメリカ」の中にも「欧」よりの民主主義観もある・・・というのは当然ありつつも、全体としては、
「ありとあらゆる構成員の生身の個」に「絶対的な権利」があって、それを全部束ねたところに生まれるのが民意・・・という”ボトムアップ型”のアメリカ型民主主義の考え方
…というのが一方であって、
「政治的な議論」という概念レベルのものが先にあって、「それのどれを選ぶのか」という形である意味思想的には”トップダウン型”に形成されている欧州風の民主主義の考え方
…がもう一方で存在する。
その2つの考え方がぶつかりあう事で、アメリカのヴァンス副大統領の演説に含まれているような、以下のような対立が生まれるんですね。
・「どう考えても正しくない意見」だろうと「個」の側は主張する権利があるし、それがまとまって一つの意見として大きくなれば、それを無視することはするべきではない・・・というのが「米国」型の民主主義の発想。
・「どう考えても正しくない意見」に乗っ取られてしまうのは「適切な議論が混乱させられている」ということだから、そういう風潮に持っていかれないようにしないといけない・・・というのが「欧州」型の民主主義の発想。
この2つがぶつかりあっているわけですが、問題なのは、人類社会全体における「欧米」の特に「欧」の方のシェアが低下してくるにあたって、「欧州」型に「正しさ」を構想するような民主主義自体が徐々に成り立たなくなっていくんですよね。
だからある意味で人類は、
「ありとあらゆる全人類レベルの個人に”アメリカ的な個”と同じ政治的主張ができる権利を与える」
・・・というような均衡点にどんどん引きずられていかざるを得ない。
欧州に住んでるインテリも、中東にいるイスラム原理主義者も、愛国的な中国人も、アメリカのラストベルトに住む白人労働者も、そしてもちろんBLM運動にコミットしているアメリカの左派勢力も・・・
実際の政治制度としてどう扱われるかは別として、「一人一票」的に平等にそれらが扱われないとオカシイ!という叫びが本能的に渦巻いているような方向に人類は引きずられて行かざるを得ない。
それが、いわゆる「グローバルサウス」の国々が「欧米」からどんどん離反していくという時に起きている本質なのだと私は考えています。
しかし、じゃあ
「欧州風に正しさを先に決めつけることはできない」「アメリカ型にとにかく絶対化した”個”の実在ベースでボトムアップ的に成立する民意に向かい合うしかない」・・・そういう時代になっていく
…のはいいとして、とはいえトランプ政権がやってることみたいなのを追認しているだけでいいのか?という大問題があるんですよね。
つまり、
・「アメリカ型のボトムアップな民主主義のアプローチ」を本質的には採用しながら
・欧州風の理想が完全には吹き飛んでしまわないような着地を目指す
⋯という「大変むずかしいチャレンジ」をいかに実現するかが重要になってきている。
2. ①欧州風の理想を、②アメリカ型民主主義をベースに、③日本という依代を利用して再構築する
この問題を別の角度から見てみると、さっき「欧州の人類社会全体におけるシェアが低下してきているので」という話をしましたが、それは日本も同じなんですよね。
そもそも全体として、人類全体に占める「いわゆる先進国のシェア」っていうのは90年代初頭まで65%ぐらいあったのが、今は4割を切っていて、さらにどんどん落ち込んでいく見込みなので、今までみたいに「欧州人のエリートがこう言ってるからこうなんだ」では全然通らない時代になってしまっている。
結果として、「欧州型の民主主義」の構造はどんどん成り立たなくなってきているのと同じように、日本の場合も「ここは日本なんだから黙ってそれに従え」という方向性がどんどん成り立たなくなってきてますよね。
とはいえ、同じ社会を共有して生きている以上、「完全に人それぞれ」というだけでは成り立たないので、「とりあえずは共通のコレに従えよ」というアレルギー反応としてのいわゆる「右傾化」とか「排外主義」という形での「対処」がなされることになっている。
この状況下で、「”すべての個”がベースとなるアメリカ的な民主主義のダイナミズム」と「日本的な調和や伝統」と「欧州風の理想主義」を全部実現するにはどうすればいいのか?
これからの日本では、
・「アメリカ型の民主主義」を受け入れきっちゃって、「あらゆる個」ベースのボトムアップの構築性で自分たちを定義していきつつ、
・とはいえ「日本らしさとか欧州風の理想とか」が吹き飛んでしまわないような着地を目指していくことが必要になってくる
…ということになります。
そこで必要になってくるのが、「受けて立つ」リベラル(メタ正義ムーブメント)の姿勢なのだ、ということです。
それは、「正しさ」と「リアリティ」との間の全く新しい”双方向性”に対して、社会全体で向き合っていくことを意味します。
(ちなみにそれを、それを「小さな対話」から「大きなムーブメント」に転換していくプロセスの中では、以下記事で書いたように日本が過去20年グダグダになりながら守ってきた「旧来メディアの安定性と人の絆」が「依代」としての大きな価値を持つようにもなるでしょう。)
3. 「正しさとリアリティの双方向性」
一番わかりやすい例だと思うのが、そもそもアメリカの分断も欧州の分断も「外国人との共生」問題というのがかなり重要な課題になってるわけですが、そういう課題においていわゆる「排外主義」的なムーブメントが起きてきたときに、どういう対処をすればいいのか?という話。
単純に言えば、「例えば移民問題に対処を求める国民の声」自体には、上から目線でお説教してないで真摯に耳を傾けつつ、それを「理想主義が崩壊しない着地」に持っていくような「受けて立つ」姿勢が必要なのだ、という方向性を揺るぎなく共有していくことが必要なんですよ。
より具体的に言えば、
「今の携帯電話会社が、SNSで”繋がりにくい”という声が出たところに即応してアンテナを整備する」
…ような形で、
「外国人との共生問題とそこからくる排外主義的主張」が出てきたら、それに対して「お説教」するのではなく、
「どうやってニューカマーにゴミ出しのルールを守ってもらうかというレベルの具体的な算段」を徹っっっっ底的積んでいくことによってのみ、「理想」を守ることができるのだ
という部分を
「揺るぎない合意点にしていく」
…ということです。
要するに「抽象的な正義」だけをポーンと放りだしてかっこよく演説してそれだけで通る時代じゃないってことですね。
その「正義を実現するために泥をかぶる」部分までを、徹底的に社会全体で共有して向き合っていく必要がある。
日本の中には「そういう活動」をしている人自体はチラホラいるけど、両極分化してしまう党派論争の狭間に落ち込んじゃうからなかなかそれをキチンと「徹底的に」やることができない。
しかし「それこそ」が本当の「正義」と呼ぶに値する行為なのだ・・・という部分で、欧米が社会的にどんどん混乱していく中で、その「理想」をちゃんと地に足ついたバージョンとして形にしていくことがこれからの日本の使命ってことになるわけですね。
4. もっと「マクロ」に見た時のメタ正義感覚が必要
「ゴミ出しのルール」はわかりやすいから言ってるけど、牧歌的な左翼風の「共生イベントをやる」みたいなレベルの話では、そもそも全然足りてないよね、ということが明らかになってきている時代ではあると思います。
単純にミクロなレベルでやれることとしても、「ゴミ出しのルールを守ってもらうための」っていうのを、ただ多言語版のお知らせを出す・・・というレベルの話でなく、もっと真剣なタウンミーティング的なものや、そもそも「入り」を法律的にある程度厳格化してコントロール可能なものにしていく・・・というレベルの事も必要になってくるでしょう。
なんせ、欧州とかは本当に何百万人というレベルで入ってくる人がいて、そういう「牧歌的」なレベルの対処では全然間に合わないからこそ難しいという段階に達しているからですね。
一個前の記事(ウクライナ戦争の終結が問いかけるもの)で紹介したNHKのドキュメンタリー「臨界世界」は、第三回がウクライナの女性兵士だったけど、第二回は「難民問題」だったんですよね。
で、中東情勢が不安定化して、でも一昔前みたいに地中海を命がけでボートで超えるルートは結構警戒されるようになったので、今はロシア経由でポーランドとかの東の国境の森を命がけで通るルートが定番化してるらしいんですが・・・
そういう東欧では、「難民保護運動」をしてる女性が必死に国境警備隊よりも先に難民希望者を見つけようと必死になっていて、一方で国境警備隊はなんとか排除しようと奔走していて・・・みたいなのがめっちゃリアルなドキュメンタリーでした。
で、排除しようとする国境警備隊に対して、難民保護活動家の女性が「人間の良心ってものがないの?」みたいな事を言ったら、
「あんたの家大きいか?そんなに助けたいなら自分の家で受け入れろよwww」
…みたいなことを嘲笑的に言われていて、まあこれなかなかメチャクチャ言ってるようで、マクロに見た時の欧州社会側の事情を考えるとなかなかただの「暴論」とも切って捨てられないところがあるなと思いました。
こういう場合の「メタ正義的対処」は、もっとものすごくマクロに現象を見た上での新しい着地点の模索が必要になってくるはずだと個人的には考えています。
要するに、
・不法でもなんでも経済移民も全員入れなくては、という方向のダダ崩れの方針はやめる(先進国側のある程度の国境管理の厳格化)
・一方で合法的にその国が入れたんなら、ちゃんと人権的に平等な配慮をしてフェアに扱うことはマストにする
・そうやって「とにかくダダ崩れに経済移民が入ってきて社会が不安定化」するみたいな状況を落ち着かせた上で、「途上国での血なまぐさい弾圧からどうしても逃れることが必要」的な「国際人道的な意味での”難民”」の方はできるだけ受け入れられるように持って行く。
・「経済移民」については、そもそも人類社会全体での「貧富の差」はかなり縮まってきている部分はあるので、「スマホは持てるようになってきた」ぐらいの母国を発展させる方向で頑張ってもらうのを基本とする
要するに、今の「不法状態の経済移民だろうと何でも受け入れなくては」っていう構造は、人類社会の中で一握りの先進国だけが「経済的に栄えて」いて、それ以外は本当にヒドイ貧困状態だった時期に想定された「構造」なので。
「経済移民部分での主権国家の自主的選択権」をある程度認めていくことで、「本当にヤバい人道上の問題がある時の少数の難民問題」ぐらいは受け入れるようにしつつ、あとは「自分たちで選んで入れたならちゃんとフェアにやれ」をルールにしていきつつ、「経済移民はむしろ自国の発展を頑張ってもらう」方向で決着する・・・
それでも、少子高齢化は日本だけでなく先進国共通の課題だから、「ある程度の」経済移民の枠は政治的に維持され続けるようになるはずです。
そういう「シフト」を行うのは、「中進国がかなり豊かになってきた今」の状況においては「正義の理想」と「現実の課題」を両方ある程度実現していくために大事な方針転換であるように思います。
なぜ「こういう転換」が必要かというと、
「理想を述べるだけの人」と「現実に対処しないといけない人」の間の不均衡という欺瞞
…が誤魔化しきれなくなってきてるからなんですよね。
よく言われてることですが、「移民難民を差別するな」「お前は排外主義だ」って非難してる人はまあまあ社会の中でインテリで安定した職を持っていて、あまり「お行儀悪い移民」が近くに住んでるわけではないことも多い。
一方で、「あまり裕福でないエリア」に住んでいて「アパートの隣の住民がニューカマー」であるような人は、日々日々「とにかくリアルな課題」を処理させられ続けるわけで・・・
その「リアルな課題」に対して対処の声をあげてくるのに対して、「差別主義者め!」って「お説教」で向かっていったら、以下記事で書いた川口の人が言ってたように「自分たちのニーズを気にしてくれるのは排外主義の人だけ」になってしまう。
そういう「黙らせる」を決してやってはいけないのだ・・・というのが、一個前のウクライナ戦争の記事でかいた「ヴァンス演説」が問いかけてきてることなんですよね。
「排外主義はいけない」という理想は、「どうしたらニューカマーの人がゴミ出しのルールを守ってもらえるか」的な日常レベルの細部の課題に真剣に取り組むことによってはじめて実現するのだ、ということを「揺るぎない合意点」にしないといけないんですよ。
変な言い方ですが、そういう「現実レベルの細部に対処する意志」を「理想主義側」が示さないのならば、排外主義だろうとファシズムだろうと「彼ら自身のニーズ」を解決してくれるような方向性を「主張する権利」が彼らにはある・・・というぐらいの発想が必要な時代になっている。
「それが正しいとか間違っている」とかじゃなくて、「人類全体における先進国のGDPシェア」が下がり続ける時代には、
「彼らがそう動くことを止めることは決してできない」時代になっていく
…ということに向き合わざるを得ないということですね。
この「理想を言う人」と「現場で苦労する人のギャップ」みたいな話が、今のウクライナ戦争でもまさにありえて、ウクライナが核を放棄させられたり、アメリカがNATOの防衛負担をもっとやれと延々言ってたのに欧州のエリートがそれを冷笑しつつ「高潔な平和主義」ぶっていたツケは、
「辺境」にあって、「隣に権威主義国がある国民」が一手に引き受けざるを得なくなっちゃってる
…わけですよね。
それは、過去の「理想主義」が生煮えのままで、「現場側の課題」に対して無頓着すぎたことの「当然の結果」として生起しているのだ・・・という「責任」を、「理想」を掲げる側が自分ごととして引き受けることが必要な時代なんですよ。
そこに必要なのが、
「掲げた理想」に対して「現実からのフィードバック」があったら、お説教してないで丁寧に話を聞いて、具体的な解決策を一歩ずつ積んでいくことこそが「本当の理想主義なのだ」という新しい「メタ正義」の発想を徹底化していくことなんですね。
5. 「フィードバックを受け取らない」事の欺瞞を許すな
この「理想に対して現実からのフィードバックを何重にもかけて、どんどんブラッシュアップしていくこと自体が本当の理想主義なのだ」という転換については、そもそも「欧州的理想」に合致しないものを一緒くたに「アンシャンレジーム」として排除して、
俺たち=正義の側
お前たち=悪の側
みたいな世界観を持つ事自体がそもそも成立不可能な時代になりつつあるという事でもあります。
心の底ではそう思っていてもいいけど「そういう建付け」を「当然相手が共有してくれる」という構造自体がもう持続可能ではない。
「相手には別個に完成された正義の価値観がある」ことを理解した上で、「相手の正義の存在意義」まで踏み込んでいきながら、「フィードバックを受け取りあって変わっていく」ことがどうしても必要になってくる。
それは、人類社会における「欧米」というものの位置付けが変わっていく時代に、それでも欧米的理想を失わないようにするには「最低限必要なマナー」になっていくんですね。
そしてこれは、「100年前の共産主義の経済計算論争」と、「AIの数学が持っている圧倒的にエレガントな物事の扱い方」との違いという、「人類全体の知的パラダイムの進歩」そのものを反映してもいるのです。
そのあたりはぜひ、「見た目以上にものすごく”骨太の思想本”でもある」私の以下の新刊をぜひ読んでいただければと。
最初は「通俗実用書」みたいな「他人との対話の方法」みたいな話かと思ったら中盤は経済・ビジネスにおける事例満載の分析がある本で、そして後半はここで書いたような「大上段の思想書」的な部分に展開していきます。
この本の中には、「上手な包丁の使い方」みたいなレベルの、本当に「日常的」なレベルのフィジカルな感覚と、この「メタ正義」感覚は本質的にリンクしているのだという話もしています。
また、この「新しいパラダイムの変化」を日常レベルでとう応用していったらいいのかという話については、こないだ出演した動画メディアのPIVOTがめっちゃ面白く短時間でまとめてくれてるので、そちらもぜひどうぞ(特に以下リンクの”後編”がそういう話ですが、ついでに”前編”も見てくれたら嬉しいです)。
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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2025年2月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。