黒坂岳央です。
「人生が生きやすくなるようなマイルールを持て」と言われる。この言葉自体はたしかに一理ある。だが、一方でマイルールを持つことで人生が生きづらくなるケースも非常に多いと思っている。
そのため、正直なところ「マイルールを持とう」よりも、「間違ったマイルールを持たないようにしよう」と言いたくなってしまうのだ。

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良いマイルールとは?
世の中には良いマイルールと、良くないマイルールがある。
良いマイルールとは、ムダを省き、人生を豊かにするためのものだ。たとえば、筆者が実際に取り入れているものとしては次のようなものがある。
「早寝早起き」
「細かいことにも感謝を言葉にする」
「否定から入らず、まずやってみる」
「挨拶は笑顔で大きな声で自分からする」
こうした行動は、何も意識しなければなかなかできない。でもルールとして決めておけば、自然と習慣になる。たとえば規律がなければ夜更かしが当たり前になり、相手の親切にも感謝の言葉をかけなくなる。
年齢を重ねると、新しいことに対してつい否定的になってしまったり、笑顔が減ったり、挨拶も「されたら返す」だけになりがちだ。だからこそ、ルールとして先に決めておいて、思考を挟まずに“反射”でできるようにする。これは、良いクセをつくるための工夫でもある。
悪いマイルールとは?
では、逆に悪いマイルールとは何か?結論、人生を不自由にし、効率を悪くするルールのことだ。たとえば、
「独身の人は人間性に問題がある」という決めつけ
「一杯目にビールを頼まない人は空気が読めない」という押し付け
「副業している人は本業に集中していない」という思い込み
こうした“マイルール”の厄介なところは、「自分の世界が正しい」という前提に立ち、それを他人にも適用しようとすることにある。拳を振るわずとも、こうした価値観の押し付けは、知らず知らずのうちに他人に精神的な圧力を与えてしまっている点で暴力と同じである。
そして、そういう思い込みに縛られて一番損をしているのは、他でもない自分自身だ。
たいていの場合、こうしたマイルールは「自分の過去の体験」から導き出されたものだ。だからこそ、本人にとっては正しい。でも、それを他人や社会全体にあてはめて「こうに違いない」と思い込むと、だんだんズレが生まれてくる。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という有名な言葉がある。自分の経験だけを頼りにカッチリとルールを作ってしまうと、時代の変化や他人の価値観に対応できなくなる。
自分の考えこそが正しいと信じすぎると、認知が歪み、周囲との関係がうまくいかなくなる。そして気づけば孤立していく……そんな悪循環にハマってしまうのだ。
マイルールを押し付ける人の心理
ここでひとつ疑問が出てくる。なぜ人は、自分のルールを他人にも押し付けたくなってしまうのか?その背景には、「被害者意識」があるように思う。
たとえば「一杯目にビールを頼まない人は空気が読めない」と考える人は、「最初はビールで乾杯すべき」というマナーを忠実に守っている。そのままなら問題はない。でも、ふと「なんで自分だけがちゃんとやってるんだろう」とモヤモヤし始めた瞬間、他人の自由な振る舞いに対してイラ立ちが生まれる。
そして、「これはマナーなんだから」と、自分と同じ行動を他人にも求め始める。
本業に専念してきた人が副業をしている人に違和感を覚えるのも同じ構造だ。「自分はずっと我慢してきたのに、なぜあの人だけ自由なんだ」と感じたとき、そこに“裏切られたような気持ち”や“ズルい”という感情が重なって、「ケシカラン」という思考になる。
でも、そもそも人はそれぞれ違った人生を歩んでいる。そこに同じルールを当てはめること自体が、どこか不自然だ。
極端なマイルールを持つ人の多くは、「自分は我慢しているのだから、お前も我慢すべきだ」という正義感を持っている。そしてその正義感が、他人を縛り、結果として自分自身も縛ってしまっている。
行き過ぎた正義とは暴力なのである。
◇
マイルールは、生きやすさのための道具であって、信仰ではない。だからこそ、「これは本当に今の自分にとって必要なルールなのか?」「他人に強要していないか?」と、立ち止まって見直すことも大切だ。
ルールを作ることよりも、ルールに縛られない自分でいること。その柔軟さが、結局は一番、生きやすさにつながっていくのだろう。
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