エミン・ユルマズ著『エブリシング・ヒストリーと地政学 マネーが生み出す文明の「破壊と創造」』(文藝春秋)は、マネーの誕生から近代資本主義の成立、さらには暗号通貨までを俯瞰しつつ、マネーと文明の盛衰を結びつけて描いた異色であり出色の歴史書である。本書のテーマのひとつに「通貨の堕落が文明を破壊する」という厳しい警句だ。
興味深いのは、この通貨劣化のメカニズムが、ローマ帝国からスペイン、明治維新前夜の日本、第一次大戦後のドイツ、そして第二次大戦期の日本まで、繰り返し現れていることだ。本書はこれらの歴史的失敗を丹念に取り上げ、マネーの暴走が社会に何をもたらすかを描き出している。

党首討論に臨む高市首相 自民党HPより
ローマ帝国:「貨幣価値の毀損」が国家統治を壊した
ローマ帝国末期には、貨幣の銀含有量が徐々に削られ、最盛期のデナリウスに比べれば「ほとんど鉛のような金属片」へと変質していた。戦争と軍事費の拡大が財政を圧迫し、それを補うために通貨を薄める悪手が繰り返された結果である。この通貨改鋳は帝国全体に連鎖的な悪影響を生み、貨幣価値の下落とともに物価は劇的に上昇した。
商人は価格のつり上げを余儀なくされ、市場は混乱し、帝国の行政能力は目に見える形で衰退した。301年、ディオクレティアヌス帝は市場混乱を正すために「最高価格令」を布告し、ワインや穀物といった必需品の価格に上限を設定した。しかし法定価格は生産コストを下回り、生産者は供給を控え、深刻な品不足が発生する。闇市場が横行し、国家の統制が無効化されていく過程は、貨幣の劣化が行政の根幹を腐らせ、社会基盤を崩壊させる典型的な姿である。著者が強調するように、ローマ帝国の末路は「貨幣の希薄化が文明の土台を侵食する」ことを示す象徴的な証拠となっている。
スペイン帝国:「外から湧く富」が国内産業を破壊した
16〜17世紀のスペインが経験した「価格革命」は、ローマとは異なる形で通貨が国家を蝕んだ事例である。ポトシ銀山やサカテカス銀山から溢れ出す銀は、当時の世界規模から見ても異常な量で、国内の貨幣供給量を短期間に膨張させた。これは現代で言えば、極端な金融緩和を外部から強制的に受けるような状況だった。
貨幣が急激に増えれば当然、銀そのものの価値が下落し、物価は跳ね上がる。著者が引用する例にあるように、かつて靴職人が金貨1枚で作っていた靴は、やがて金貨5枚を要求するようになった。これは単純な物価上昇以上の意味を持つ。国内の生産コストが欧州諸国と大きく乖離し、スペイン製品は国際市場の競争力を完全に失った。輸入品が安く見えるため、国内産業は育たず、消費主導で経済が空洞化していく。植民地銀がもたらした豊かさは表面的で、国家の創造的能力を弱らせたのである。
最終的に、スペイン王室は複数回の財政破綻に追い込まれる。ここには、外部からの富が国家を必ずしも豊かにしないという歴史的皮肉がある。むしろ、過剰な貨幣供給は産業構造を歪め、国力をむしろ弱体化させることがある。本書は、このスペインの転落を現代にこそ読み直すべき重大な教訓として位置づけている。
幕末日本:歪んだマネタリーシステムが体制崩壊を加速させた
19世紀半ば、欧州の金銀比価が「金1:銀15」であったのに対し、日本は「金1:銀5」という大きな歪みを抱えていた。この比価差は、近代的な国際貿易の中に組み込まれた瞬間に大きな問題を生み出す。欧米商人は、日本で銀5グラムと交換した金1グラムを欧州に持ち帰れば銀15グラムに交換できる。つまり、中継するだけで銀が3倍に増える「錬金術」が可能だった。
当然、大量の銀が日本へ流入し、金は急速に流出する。国内の貨幣体系は動揺し、銀を資産としていた豪商は価値下落の直撃を受け、相次いで倒産した。徳川幕府の財政は急速に悪化し、政治的権威は急速に失われていく。著者は、明治維新を引き起こした大きな原動力の一つに「マネタリーシステムの崩壊」を位置づける。つまり幕末の政治革命は、単に外圧や思想の問題ではなく、通貨制度の歪みが招いた経済危機が土台にあったという視点である。
第一次大戦後のドイツ:過度な負担、人々の絶望、通貨崩壊
第一次世界大戦後、ドイツは苛烈な賠償金支払いを強いられ、疲弊した経済の中で通貨増発に依存せざるを得なくなった。1923年、フランスとベルギーによるルール地方占領に対抗して政府が賃金支払いのために紙幣を増発したことをきっかけに、悪性インフレは制御不能となる。かつて39マルクだったタマゴ10個が、数年後には3兆マルクに跳ね上がる。その激しさは単なる物価変動ではなく、人々の生活基盤、社会秩序、民主主義そのものを破壊する力を持っていた。
中産階級は蓄えを失い、失業が広がり、社会は不満と絶望に満ちる。それがナチス党の台頭を許したという点で、ワイマールの通貨崩壊は経済現象にとどまらず、政治体制を根底から変えてしまった事件であった。著者はレーニンを引用したケインズの警鐘を引き合いに出し「通貨の堕落こそ、資本主義を破壊する最も有効な方法だ」と強調する。ここでは貨幣の劣化が、国家体制の崩壊へと直結する全体像が鮮烈に示されている。
第二次大戦の日本:日銀引き受けの果てに待つもの
本書は現代政治を直接論じるわけではないが、ローマ、スペイン、幕末日本、ワイマール・ドイツと続く歴史のパターンは、現代日本に対しても静かな警鐘を鳴らしているように見える。長期の財政赤字、債務膨張、国債依存構造といった現状は、過去の国家が通貨と財政を誤った結果たどった衰退の姿と驚くほど似ている。高市政権が掲げる積極財政の是非に対する判断は本書の射程外だが、歴史の教訓を踏まえれば、貨幣に過度な負担をかけた国家がどのような結末を迎えたかは明らかである。

植田和男総裁 日本銀行HPより
歴史は「通貨の堕落が国家を崩す」ことを何度も示してきた
本書は、マネーを単なる経済技術ではなく、人類文明の「加速装置であり破壊装置でもある」と捉える。その視点から過去を見れば、ローマ帝国、スペイン帝国、幕末日本、ワイマール、戦時日本など、通貨の劣化が国家崩壊を招いた事例は驚くほど多い。
そしていまの日本はどうか。
高市政権は「デフレ脱却」「成長投資」を掲げ、大規模財政を正当化する。しかし、債務がGDPの200%を超え、日銀が市場機能を麻痺させた現在の状況は、歴史が何度も描いてきた「通貨の堕落の入口」と酷似している。
本書では高市政権の経済政策には触れられていないが、この歴史的教訓は、いまの現在の責任ある積極財政と無関係とは言い難いように思えてならない。
【目次】
はじめに 経済×地政学が照らし出す人類の歴史
第1章 マネーから見た古代ローマ帝国興亡史
第2章 イタリア・ルネサンスと銀行の誕生
第3章 貿易戦争としての帝国主義と収奪システム
第4章 地政学から見る日本の近代経済史
第5章 第一次世界大戦という資源戦争
第6章 第二次世界大戦と基軸通貨戦争
第7章 シン半導体戦争
終章 アメリカの中東戦略とマネーの未来







