私はコロナ禍以前に「網野善彦とベラ・ザスーリチへの手紙」という論文を執筆したのだが、諸事情により論文が宙に浮いてしまい、この論文をどこかの雑誌・書籍に掲載する見込みが立たない。
今回、この場を借りて冒頭部分を公開し、掲載を検討してくれる媒体を探してみることにしたい。
1.はじめに――「老マルキスト」網野善彦
網野善彦(1928-2004)は、日本で最も著名な歴史家の一人である。網野の学問的業績は多岐にわたるが、戦後日本の歴史学界の主流であったマルクス主義歴史学を批判し、新しい歴史像を提示した歴史学者として一般には知られている。芸能民や被差別民、女性などマイノリティの歴史を独自の観点から考察したその研究スタイルは、アナール学派の「社会史」との類似性を指摘されている※1)。
網野善彦
新潮社
網野は、この世界の全ては神仏のものであり人間によって所有されるべきではないという原始的な信仰が文明社会においても生き続けたと主張した。そして、この「原始以来の無主・無所有の原思想」の日本的な表現が「無縁」であると説き、私的所有の論理である「有縁」と「無縁」の対立を軸に日本史を捉え直した。
この網野の学説は、農業生産力の拡大が経済発展の原動力であるというマルクス主義歴史学の通説と大きく異なるもので、日本の歴史学界から批判が相次いだ。
しかし網野本人にはマルクス主義を捨てたという自覚はなく、後年になっても「老マルキスト」※2)と自称し、「私はマルクス主義から完全に離脱したという意識は全然ありません」※3)と語っている。
網野が批判したのは、あくまで日本の歴史学界の教条的・硬直的なマルクス主義であった。網野はマルクス・エンゲルスの古典を旧来の解釈に囚われずに独学で読み直し、学界主流の歴史観よりも自身の歴史観の方がマルクスの真意に沿ったものであると考えた。そのような主張をする時に、網野が好んで引き合いに出したのが、マルクスが1881年にベラ・ザスーリチに宛てた書簡である。
網野がその名を世間に広く知られる契機となった代表的著作『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(平凡社、1978年)のあとがきには、次のような記述がある。
このテーマを考えるようになった最初のきっかけは、二十五年ほど前、本書(第21章)にあげた川崎庸之氏の論稿に接し、以後、氏の諸論文を漁り読んで強烈な感銘を受けたことにある。古代の公民が、原始の氏族共同体以来の自由民の伝統につながる、という川崎氏の確固たる発言と、同じころ熟読したマルクスの「ヴェラ・ザスリッチへの手紙」の中で強調されている「原始共同社会」のおどろくべき長い生命という指摘とは、あわせてその後の私をとらえてはなさなかった。※4)
これによれば、網野は『無縁・公界・楽』の核心的テーマである「無縁」=「原始の自由」は、ベラ・ザスーリチへの手紙を読み直すことで得た着想が基になっているという。この網野の発言は、「網野史学」の形成過程を解き明かす鍵として重視されている※5)。
だが、網野と「ザスーリチへの手紙」との邂逅について、網野本人や網野の甥の中沢新一の回顧談の内容(後述)を無批判に受容すべきではない。
本稿では、「ザスーリチへの手紙」が網野の学問にいつ、どのような形で、いかなる影響を与えたのか、同時代の文献に基づき再検討を行う。
2. 網野証言への疑問
網野が「ザスーリチへの手紙」に注目したのは、いつ頃からなのだろうか。まずは網野自身の証言を確認しておく。網野は2001年に社会学者の小熊英二と対談した際、次のように述べている。
私は一九五三年、それまで観念的な「マルクス主義」にもとづいた運動を行っていたことに気づき、運動から落ちこぼれて身を引いたあとに、マルクス・エンゲルス選集をあらためて読み直していましたが、その中で、晩年のマルクスの「ヴェラ・ザスリッチへの手紙」などを読んでみて、マルクス自身が単純な「進歩」史観ではないことを知り、自分自身の考えの一つのよりどころにするようになりました。※6)
ここで言う「運動」とは、民主主義科学者協会(民科)歴史部会が展開した国民的歴史学運動のことである。国民的歴史学運動は、日本史の中から輝かしい「民族文化」を発見し、日本人に民族の誇りを持たせることを通じて、アメリカの帝国主義から日本を解放することを目的とする民族解放運動である。石母田正や松本新八郎らが運動を主導し、多くの歴史家や学生が賛同した。
網野は国民的歴史学運動への自身の関わりについて以下のように語っている。
一九五二年のころから、共産党が武装闘争の方針をとるようになり、それに基づいて国民的歴史学の運動が展開されていったのですが、五二年から五三年にかけて、活気にみちていたこの運動は、やがて次第に一種の退廃の様相を呈し始めます。もともと現実から遊離した観念的な運動で無理をしているわけですから、おのずとこのころ、運動はあらゆる面で疲労と退廃の兆候を示し始め、それが歴史学界にも及んできます。※7)
民族独立の運動が、「毛沢東路線」で急進化して「山村工作隊」の運動がはじまります。遅れた山村にゲリラの根拠地を設け、そこを拠点に革命を起こすということを本気で考えていたのです。私は当時督戦隊みたいな立場にいたので、山村には行きませんでした。人をあおっておいて、自分は安全なところにいたのですから罪意識が非常に大きいですね。まさしく「戦犯」といわれても仕方がありません。※8)
自らは真に危険な場所に身を置くことなく、会議会議で日々を過ごし、口先だけは“革命的”に語り、“封建革命” “封建制度とはなにか”などについて、愚劣な恥ずべき文章を得意然と書いていた、そのころの私自身は、自らの功名のために、人を病や死に追いやった“戦争犯罪人”そのものであったといってよい。※9)
「歴史学を国民のものに」をスローガンとした国民的歴史学運動は、日本共産党所感派の武装闘争路線を前提としていた。そのため国民的歴史学運動はサークル活動や聞き取り調査に基づく民衆史研究や紙芝居・人形劇などによる民衆への実践的歴史教育に留まらず、武装闘争へと展開していく※10)。共産党は「民族の英雄」の美名の下に勤労青年や学生たちを山村工作隊として工場や農村に派遣し、革命の拠点を作るよう指示した。
だが網野は共産党内で将来を嘱望されていたらしく、革命の最前線には派遣されず、警察に逮捕される恐れのない安全な場所から国民的歴史学運動を指揮した。運動の激化や共産党の内部抗争によって多くの仲間が傷ついていく中、網野は次第に運動に疑問を持ち始め、組織内での人間的摩擦もあって1953年の夏に運動から離脱した※11)。
なお日本共産党は1955年に第6回全国協議会(六全協)で従来の武装闘争路線を「極左冒険主義」として全否定した。これによって国民的歴史学運動は終焉し、「政治主義による学問の引き回し」と総括された。
国民的歴史学運動から離脱した網野は、日本共産党の政治活動そのものから距離を置くようになる。これは網野にとって自らの学問を根本的に問い直す契機となった。網野は文化人類学者の川田順三との対談で次のように回顧している。
大学を出たころ、人のシェーマにのっかって、ものを見始めた時期がいちばんいけないんです。つまり、自分のシェーマに都合の良いことを本の中で確認しているだけなんですね。だから、沢山読んでいるつもりになっていたのですけれども、自分は人の見方を真似していただけなんだとハタと気づいた時には何も残っていないんですよ。本当になにも覚えていないんです。だから私は、それから結局全部最初からやり直しです。二十五、六歳の頃でしたが、読んだつもりだった本や前に集めた資料をもう一度ひっぱり出して読み直すことから始めなくてはならなかったのです。※12)
網野は1953年に25歳になっている。この川田順三との対談と、先の小熊英二との対談、そして冒頭の『無縁・公界・楽』のあとがきを踏まえると、国民的歴史学運動から離脱して学問を一からやり直して間もない時期に、網野は「ザスーリチへの手紙」と出会い、自らの学問の新たな指針としたことになる。
しかし、以上はあくまで、網野が後年になって当時を振り返った証言である。網野の主張に従えば、網野は極めて早い時期から、「ザスーリチへの手紙」を通じて、進歩史観への違和感を抱いていたことになる。この点は小熊も疑問に思ったようで、「網野さんの進歩史観というか、マルクス主義の発展段階論への単純適用というものへの違和感というのは、六〇年代からもう出てきていたわけですね」と確認している。
これに対して網野は、
五〇年代後半からですね。農業が発展して、「封建社会」が発展するのが、歴史の「進歩」であるとする見方に対する疑問がそのころから出てきました。※13)
と応じている。もし網野が1950年代後半から進歩史観に疑問を持っていたとすると、その先見性は際立っている。だが果たして、40年以上経ってからの回想談をそのまま鵜呑みにして良いのだろうか。
これに関連して、網野の主張の特徴として、独学の強調が挙げられる。アナール学派からの影響については「フランス語は読めないですから直接の影響などまったくありません」「アナール派の翻訳もほとんどされてなかったですから、私は全然読んでなかった」などと事あるごとに否定している※14)。
けれども、語学力の不足という語りには謙遜の恐れがあり※15)、外国の文献を参照せずに全く独自に研究を進めたという網野の主張を疑問視する研究者もいる※16)。
前述の1950年代後半の再出発に関しても、網野は独学を強調する。
大学時代から卒業してしばらくは、運動の中で調子よくリーダー面をしていたのですが、五〇年代後半に高校教師になってからは、若い研究者の中で私の顔を知っている人はほとんどいなくなったし、学会の議論は私には無縁のような感じがしていました。さほど自覚的に拒否したわけでもないけれども、行く意欲も起こらないので研究会などには行きませんでした。※17)
しかし網野は、決して学界の研究動向に無関心だったわけではない。安良城盛昭が1953年に発表した論文「太閤検地の歴史的前提」を契機に歴史学界には「安良城旋風」が巻き起こり、太閤検地、さらには中世と近世の時代区分をめぐって激しい論争が展開された。網野がこの論争を「雲の上の議論」と言いつつも、その行方に深い関心を寄せていたことは、回顧談からもうかがえる※18)。
網野は往時を「歴研(筆者註:歴史学研究会)の部会には殆ど出席しませんでしたし、大会に出席しても遠くの方で報告を聞いているだけでした」「歴研の部会や大会に出てもさっさと帰ってしまう」と振り返り学界との断絶を主張するが※19)、逆に言えば出席して報告を聴くことは欠かしていなかったのである。
共産党の政治活動から足を洗った網野は、共産党との関わりが深い歴史学研究会で他の研究者と積極的に交流することは避けたが、研究面ではなお学界での最先端の議論を意識していた。網野の「独学」証言を再検討する必要がある。
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※1)阿部謹也『阿部謹也自伝』(新曜社、2005年、198-199頁)。
※2)網野善彦・石井進「中世史の現在」(石井進編『中世の村と流通』吉川弘文館、1992年、15頁)。
※3)網野善彦・小熊英二「人類史的転換期における歴史学と日本」(網野善彦ほか『網野善彦対談集 「日本」をめぐって』講談社、2002年、初出2001年、183頁)。
※4)『網野善彦著作集』第12巻、岩波書店、2007年、175頁。
※5)保立道久「解説」(網野善彦『日本中世に何が起きたか』洋泉社、2006年、256頁)、内田力「無縁論の出現――網野善彦と「第二の戦後」」(『東洋文化』89、2009年、203頁)。
※6)前掲註3対談、147・148頁。
※7)網野善彦「戦後歴史学の50年」(『網野善彦著作集』第18巻、岩波書店、2009年、初出1996年、31頁)。
※8)網野善彦「戦後歴史学から学んだこと」(同『歴史と出会う』洋泉社、200年、初出1998年、92頁)。
※9)網野善彦「戦後の“戦争犯罪”」(前掲註7書、初出1995年、4頁)。
※10)前掲註3対談、152頁。小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉――戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002年、340~347頁)。
※11)前掲註3対談、159頁。小熊前掲註10論文、349頁。内田前掲註5論文、200頁。
※12)網野善彦・川田順三「歴史と空間の中の“人間”」(『網野善彦対談集』第1巻、岩波書店、2015年、初出1983年、72頁)。
※13)前掲註3対談、148頁。
※14)網野善彦「人類史の転換と歴史学」(初出1998年、前掲註12書、274頁)、前掲註3対談(182p)など。
※15)ドイツ語が得意だったことは本人や周囲の人間が証言している。前掲註7書、12・232頁。笠松宏至・勝俣鎮夫「網野善彦さんの思い出」(『図書』698、2007年、6頁)。
※16)桜井英治「非農業民と中世経済の理解」(『年報中世史研究』32、2007年、40頁)。
※17)前掲註3対談、170・171頁。
※18)前掲註7書、32~37頁。
※19)前掲註7書、34頁。